( 最 終 ) 瓔 珞 便 り   (平成5年十二月二十日) 

  拝啓 例年ならば瓔珞便りの季節でございまして、あるいはお待ちくださいました諸先生もおいでかと存じます。しかし、心の進まない筆をとらざるをえません。平成五年二月二十三日明峯先生がご逝去なされました。

 先生は生前に既に金銭出納帳や会の事務用具を私に寄託されておりました。会は先生のご骨折りで始まり、そして続いてまいりました。明峯先生という求心力を失いましては会の存続につきまして重大な決意をせざるをえません。在札の一部の先生ともご相談申し上げ、会を解散することに決しました。会が自然消滅するようなことをさせてはなりません。また、北大予科とは無関係な新制大学である北大教養部の一部の教官が僭称しております「北大教養部瓔珞会」に継承されるべきものでもありません。北大予科最年少の教官としてあの二年間がその後四十年間の新制大学教養砂漠居住のどの時期よりも懐かしく思い出され、また当時の予科生諸君が未だに慰めてくれます。

 このような私情を披瀝しました失礼を、何卒お赦し下さい。

 諸先生のご健康とご長寿とを祈念しまして、筆を擱きます。        敬具

  平成五年十二月二十日       瓔珞会世話人      山 元 周 行

 事務連絡的な事柄:

 明峯先生に托されました諸先生と桜星六十八期会からのご寄附によって、会の運営はなされてきました。下のコピー(省略)の残金から今回の切手代三千百円を引いた金額が最終残金となります。実を申しますと、この便りを書きはじめる前まではもっと少ないものと考えておりましたのですが、先生の一周忌になにかご仏前にお供えしたいと存じます。ご了承をお願いいたします。

 

    予 科 の 終 焉 −明 峯 先 生 の 死  (追悼文に代えて)

                              山 元 周 行

 昭和18年予科本館の前の芝生で,服部予科長が新任の明峯先生を予科生に紹介された。当時予科生であった私は、随分若い先生が来たものだという程度で眺めていた。鈴木限三先生と伊藤秀五郎先生の講義で生物学は既に了えていたので、明峯先生にはお習いすることにはならなかった。

 昭和23年私が予科教授会に宇野先生から紹介された時の部屋は,部屋の真中にある石の火鉢をとり囲むようにして席がつくられていて、火鉢の周囲のエライ先生の中に明峯先生がおられた。時折火鉢の火をかきまわしていた仕草が妙に思い出される。

 明峯先生と私の比較的密な接触は、宇野先生が昭和24年春に予科を辞任されたのを契機とする。予科教授会で宇野先生が辞意を表明されたのは,先生の辞任挨拶の中でもふれられていたが、選挙で共産党の大躍進が報道された日であった。「この時、宇野先生がなぜ北大を去られたのか」というのは、明峯先生と私の共通のテーマで、明峯先生が亡くなられる寸前まで議論が繰り返された。宇野先生への思慕が二人を結びつけたと言ってもよく、宇野Schuleの精神的継承を語り合った。

 1)新制大学理念における堀内・松浦理想主義への屈服あるいは賞賛。2)艦長論(沈んだ予科丸の艦長としての責任)。3)侠気。4)贖罪論(戦争中の言動に対しての精神の屈折)     等々。

 この稿はこれらを展開する場ではないが,明峯先生の死により、この機微を知悉している人を失ったことになる。

 辞表を叩きつけてやめたらどんなに爽快かと思う衝動を俗物的計算で抑制して人生を送ってきた者には、宇野先生の潔癖さと清貧の生活を批評する資格はないが、多くの予科生諸君に先生ほど強烈なimpactを与えた師は少ない。一両年中に北大の教養部は廃止されるそうである。そうとすれば、明治40年からの予科と昭和24年からの教養部との存続期間はほぼ同じであったことになる。この期間を経ても,新制大学発足時に予科教官をも鞭打つことともなった北大教養部における理想主義は定着しなかったのであるから、宇野先生がこれに対していだいた危惧が実証されたといってよい。

 宇野予科長から医類と理類の担任をするように言われていた私は、後事を宇野予科長から托された明峯予科主任の下でこの仕事をすることになった。

 敗戦後の貧困な中での革新的状況,朝鮮戦争の開戦前夜、イールズ事件等々にも象徴された混乱した時代のようにも考えられているが、後の教養砂漠におけるように教師が学生諸君から疎外される惨めさは覚えなかった。諸行事のみならず,予科閉校の別離の記念行事までも、桜星会幹部学生諸君の企画の上に教師は乗っておればよかった。北大予科共産党細胞の諸君なども自己犠牲を顧みない善良な青年の集まりで、今でも懐かしく思い出される。

 明峯先生は学生諸君を取り締まるといううような対策的発想はもたれず、口にすることもなかった。また、イデオロギーを口走ったり他人の悪口を言ったりせず、先生と話している時には、自分の(サガ)の悪さを恥じることも少なくなかった。しかし、警官に学生を蹴散らしてもらって教養部の矛盾を解決しようとした自称正義漢居士達に対しては強い不快の念を表していた。後に理学部右翼の代弁者ともなったこの居士達の一人は、予科の最後の及落会議で、担任していた全員の修了を主張した私と司会をしていた明峯先生を道学者然として皮肉ったことも思い出される。この時詮議の対象となった諸君の中には,炭鉱などで労働運動に身を投じていたが、後の人生の再出発で予科修了の資格が役立ったことを耳にして,予科廃佼の際にとったこの処置は正しかったと思っている。

 経常的な学務以外で最もseriousな問題は、140名にふくれあがった医類の諸君から100名しか北大医学部では受け入れないことであった。40名を札幌医大が殆ど無条件に受け入れるようになったのは,明峯先生のお骨折りによることが多大であって、現在この140名の諸君の医学界における多様な御活躍を見聞するのは誠に喜ばしい。

 理類の諸君に対しては、専門学科の悔いのない選択をして欲しいと考えて、予科で私と同級生であった物理の菅原正朗氏や化学の北野康氏などを呼んで話してもらった。若輩のいろいろな試みにも,先生は全く寛容であった。

 としをとると、buerokratischになり無感動にもなるものである。老成の風を装いながら、その実、精神的には堕落してゆく大方の群れの中で,明峯先生は万年青年であられた。寮歌祭や恵迪寮の同窓会で予科白線帽をかぶった先生は,未発達の可能性に生きている(シアワセ)を選んでいるロマンチストであった。

 北大定年の後に勤められた大学もやめ,自適の生活を送られるようになってから,予科への回帰の念が増されたに違いない。電話をかけられたり、役場に問い合わせたりして、全国に散らばって生存じている旧予科教官の住所の完璧なリストが作られた。先生は世話人代表とと言っておられるが、事実上この会の会長である。瓔珞会と名ずけられた。私はこの会の世話人となるように言われた。会の仕事を口実に,先生のお宅を訪れることができたこの十数年が先生の御親交を最も得た時期であった。先生の書かれた「瓔珞たより」の原稿をワープロに打って、そのコピーを作るのが私の仕事であった。また、他の諸先生に往復葉書を差し上げて、復片のコレクションのコピーを作る仕事もあった。しかし、仕事の時間よりは,先生のお宅でダベル時間の方が長く、そこでは予科への回帰の情感に安心して浸れた。

 新制大学発足時に自らあるいは心ならずも北大を去られた諸先生が送って下さる便りには、予科,北大,札幌に対する慕情,愛情が溢れている。これは北大の教養部の多くの教師には望むべくもない。他大学で学長になられたり立派な業績を積まれたりしている先生方をとどまらせえなかったのは、北大の大きな損失であった。

 先生の死により、その統合の中心を失った瓔珞会は解散せざるをえない。北大教養部で教えた教官であった者が「○○瓔珞会」という名称を使っている。既に同名の会があるのを承知の上でこのような命名をするのは失礼である。新制大学の北大教養部は北大予科のアンチテーゼとして発足し、「旧予科的」は悪の代名詞のように蔑まされた時期も長かった。教養部で教える教官の多くは予科と関係がなく、また精神的にもその継承者ではない。また新制大学発足時に断罪された予科教官の心情よりしても、「瓔珞」の名を冠するのは受け入れ難い。

 このようなことを生前明峯先生と語った時、先生も同感されたと私は自得している。しかし「山元の奴、また気焔を吐いているな。」と苦笑されているかもしれない。

 この拙稿を草することに明峯先生の最後の御寛容を乞うとともに、先生の御冥福を祈る次第である。

 [追記]何度も原稿を催促して下さった高嶋巌氏にお詫びするとともに深く謝したい。桜星六十八期会の諸君の御好意をもってしても、このような機会は今後殆ど望むべくもないからである。そして、追悼文を標榜しながらも私の個人的心境を語り過ぎたのもお赦し願いたい。

             北大予科閉校40周年記念誌(平成5年6月30日発行)所載

 

      瓔 珞 会 会 員 名 簿   

昭和初年以降北大予科に在籍した教
練将校、外人教師を除いた専任教官よりなる会の会員名簿

                      世話人 明峯俊夫、有岡勇、山元周行

             故   人

昭和56年以前に御逝去の先生:(担当学科別)

国語漢文                                  ドイツ語

宇野親美   服部品吉   樟本成美    八木沢元   青山延敏  山田鉦太郎

 

東 新    羽鳥又次郎  成田秀三    吉崎十七   中島 篤  大野勝治

       英語

山岡直道   斎藤護国   萩原清次郎   広橋 浩   安保常治  高橋保郎

                             数学

高杉栄次郎  木村 勇   小谷武治    中川時代   岩瀬喜作  川端梁雄

 

鈴木庄次郎  山鳥藤治郎  栃木十吉    高橋丑治   三田村幸吉 荒又秀夫

       物理

奥村敬次郎  青葉万六   野附雄次郎   小林種樹   菊地 知  今堀克巳  

       化学                 生物

梅津藤市郎  芳村五左衛門 中山忠照    新庄 魏   鈴木限三  伊藤秀五郎

              地学                図学 

山口英二   吉村文五郎  田上政敏    石橋正夫  中根孝治  大山於兎次郎 

 

 昭和57年以降に御逝去の先生(御逝去順):

 

高岡道夫   土佐林義雄  池田福海    兼元藤兵衛 金木藤雄  和田禎順

都築東作   曽我孝之   田内静三    川島琢治  藤原 正  水口彦太郎

丸山 巌   小山民造   三戸芳雄    村松 康  佐藤久次  中野久一

谷井容甫   真方敬道   坂元義男    渡部信夫  稲垣 武  井上 弘

佐藤昌彦   神柾之助   横溝政八郎   吉田竜男  明峯俊夫  大谷吉雄

篠田成之   清水栄長   千田朝慎    辻村正吾  富永義彦  橋本誠二

三上     水谷 寛   柴田治三郎   宮崎兼光  丹治敏衛  川村米一

有岡 勇   若山誠治   小宮英太郎   和田英夫  奈良岡健三 林 正一

関川 巌   大根善次   紺野正平

                               以上99名

      生 存 者   (平成15年末で山元が死亡を確認していない。50音順)

数 秋山 隆二郎   生 石塚 星郎    化 入江  遠

経 蝦名 健造    数 江本 淡也    数 大槻 富之助

英 大野 三千右ェ門 史 北村 文治

生 久佐  守    化 小松 三郎    

英 高野 仁太郎   化 高橋 義勝    独 津村 浩三

数 中島 甲臣    体 中西 信行    国 西村  稔

独 原  俊彦    化 蟇目清一郎    哲 古田  二

英 本堂 正夫    数 松本 夏雄    化 村上 玉樹

数 山元 周行    物 山本 隆男    独 結城 謙治

独 横岡 雅雄    化 鰐淵 武雄 

                               以上27名