大連の旅

平成14年11月
応援団名誉顧問 山元 周行

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 11月大連に1週間滞在しました。それにふれたメールを転送します。
 北星学園大学での私の後任教授に宛てたもので、関係のないところは、読み飛ばして下さい。

 明治40年「一帯ゆるき」の作歌者である著名な遺伝学者田中善麿先生は、明治41年寮歌「太虚の齢」の作歌者でもあります。この寮歌は「太虚の齢は知らねども」から始まって、「故人の教訓むねにせよ ビー アンビシャス ボーイズ と」で終わり、北大在任中、私は好んで学生諸君に披露しました。ストームの歌は明治43年に完成したのですが、「クラーク氏ビー アンビシャス ボーイズ と コチャ 学府の基を残し行く」で終わります。また明治45年の「都ぞ弥生」の最後は、「貴き野心の訓へ培ひ 栄え行く 我等が寮を誇らずや」。寮歌における「大志の系譜」は田中善麿先生により,寮歌作歌が始まった初期の時代に、方向ずけられたように思われます。
 大正2年の第7回目の寮歌「幾世幾年」は木原均先生の作歌です。先生は学士院賞などを総なめし,京大学長も歴任。
 1980年北大予科閉校30年記念式典の際、木原先生と同じテーブルに座る光栄に浴しました。北大予科閉校30年記念誌所載の記念講演(p.p.3-16 )を、早いスピードの明晰な声で,澱みなくまた休まずに展開されました。1893年のお生まれですから、この時は90歳に近いご老体でした。その超人振りには,驚嘆を超えて,感動すら覚えました。
 北大野球部の投手であった先生は、この講演に臨む前に,旧寮の玄関前でキャッチボールをされ、その強肩ぶりを見せてくれました。

  成田空港から大連空港までは3時間位の飛行時間。大連空港は搭乗口が2つか3つの小さな空港。空港(街の北西部)から大連外国語学院(Dalian University of Foreign Languages)(街の中心部の南端)までは,タクシーで30分以内。料金30元(450円)以内。
 タクシーは初乗り8元(120円)。街の中心部を走って、15元(225円)以上払ったことはありませんでした。乗る時に行き先,たとえば「大連外院賓館」と書いた紙を運転手に見せ、降りる時はメーターの表示の金を払えばよいだけです。しかも大学の門の傍や,市中でタクシーを探すのに1分以上かかったことはありません。ひっきりなしに通っています。 
 それよりも安くて便利なのは市内の路線バス。乗る時に1元(15円)を入り口の箱に入れるだけ。後は何処で降りてもよい。ポケットに1元コイン(紙幣)が10枚あれば,可也の市内観光可能。これで街を駈けめぐる。

 到着した16日の晩は,市中の四川料理店に、教授夫妻から招待を受ける。
 宿は大学キャンパス内(といっても、門の直ぐ傍)の「大連外院賓館」(7階建てホテル)。6泊分の1200元を払うとカード式のキーをくれる。これは、チェックアウトまで携行。
 最後に100元返してくれるので,1泊2750円。バス,トイレ付きのツインルーム。KKRの竹橋や梅田のツインルームより面積も広く,天井も高い。暖房,空調設備もよい。


 17日の朝食はホテル地下のレストラン。胡瓜の漬物をこんもり盛ったT皿,炒め物T皿,豆腐の汁の丼、お粥の丼を載せた盆をレジに出すと、「20」と表示される。20元札を出すと、18元のお釣り。20角=2元=30円でよかったのである。朝食は毎日30円ですませた。学内には、レストランはここ以外に2つあった。昼食はとんかつ,韓国料理,ロシア風スープなどをまじえてみたが,7元を上回らない。

 市中に中国料理店が多いのは勿論ではあるが、日本料理店も多い。通りの両側20軒近くが皆日本料理店というような街もある。30元か40元出すと,豪華な定食。80元でも出そうものなら、刺身,てんぷら、寿司等々10品以上の盛られた会席料理。
 これらよりも,最も有難かったのは,街中で目に付く「海鮮料理店」。店の入り口の生け簀,沢山の水槽に泳いでいる色々な魚介類から所望のものを指差すと,調理してテーブルに運んでくる。魚介類の豊富さ,廉価さには驚嘆。平目の活造りで毎晩盃を傾ける。2人で食べても残しそうな大きなピクピク動いてる平目の刺身をつつきながら,日本酒を飲む。その後は,アラを使った味噌汁、あるいはスープを無料(サービス)で持ってくる。海外旅行にありがちな日本食への渇望などは起こりようもない。最後の晩は殻つきのうに5個,生牡蠣12個、しゃこ3匹,可也の量の蟹、鮑2個,寿司等々。日本へ帰ったら高くて貧乏人には食べられないものをたらふく食べた。よくお腹をこわさなかったものである。場所は渤海大酒店(渤海ホテル)の30階にある回転レストラン。ここからの夜景の眺望は美しい。食べ放題のバイキング形式で1人100元。

 大型スーパーでは安い食材,日用品が溢れている。大型電器店も目立つ。銀行と証券会社の立派な建物も多い。散歩の途路、トイレや休憩のためには、これらのロビーは好都合。そう富裕とは見えない民衆が株価の電光板に見入っていた。
 丁度開催されていた共産党大会の成功を祝す横断幕もみられたが、まさしく資本主義社会の様相。しかも、日本のような閉塞感は漂ってはいない。

 前述の日本料理店以外に、日本人向けクラブ(バー。キャバレー)も多い。日本人商社マンの需要を反映しているのであろう。高層ビルや大型デパート(マイケル資本のデパート等)に日本資本も進出。

 大連は3方が海で囲まれている。19日午後,副学長の先生がタクシーでこの海岸を1周して案内して下さった。色々な名前の公園,中国要人の保養地、ゴルフ場、海水浴場等々が次々と眼前に展開された。百年記念広場(大連市は百年の歴史。札幌と同じようなもの)は、北京の天安門広場の3倍以上。

 これらの風物を愛でるより、車中と車を降りた後のレストランでの副学長先生との会話が貴重であった。

 19日午前には飛び入りの講義をする。漢字を板書し、必要あれば英語でコメントした私の話を、全員が私から視線をそらさず,終始熱心に聞いてくれた。質問を受け付けると、次々と間をおかず,極めてまじめな質問。教室を退出する時には,全員で暖かい拍手。北大定年後、講義の後にこのような爽快な気分と感動を味わったことはない。

 建物の入り口のガラスドアーにあった「拉」、「推」の文字にはすっかり馴れた。「拉」はpull、「推」はpushである。
 
 露,日,中,朝の結節点の地,大連で100年の歴史を偲ぶ体験は貴重であった。
 食べ物の話などをするよりは、この体験を下敷きにして、日本の現況に対し、戦中派として発言したいことが沢山ある。しかし、しばらくは自重しよう。「物言えば唇寒し 秋の風」の危険なしとはしない。

 旅順には立ち入り禁止区域が多くて危険だから,旅行業者のツアーで行くようにとの旅行案内を日本で見た。ところが、旅順の「老鉄山温泉」への無料送迎バスが、中山広場の大連賓館(旧やまとホテル)から出るとのこと。教授の息子さんが付いていってくれるというので、この温泉に2人で1泊することにした。

 温泉についてから,タクシーを拾って水師営。20mくらいの土造りの平屋の民屋。なかには夕涼みの縁台のような長い木の椅子1脚と机があるだけ。これを見るのに40元。他の物価に比べると高い。日本の老人の郷愁をくすぐった商法。旅順へのバスの中で,小学5年生の教科書で習った「水師営の会見」の唱歌を、何とか思い出そうと試みた。「旅順開城約なりて、敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ、水師営。」から始まって、「昨日の敵は今日の友、語る言葉もうちとけて,我はたたへつ、彼の防備、彼はたたへつ、我が武勇。」まで思い出した。帰宅して調べると、これは4番で、9番まであった。
 雪がちらついて来たので,牛肉のしゃぶしゃぶ鍋と53度の酒で身体の中から暖める。

 

 タクシーを拾って203高地に向かう。緩やかな坂道、なだらかな山。とても要害堅固の地とは思われない。ここで何万もの戦死者をだしたのは、不思議であった。山頂から、広瀬中佐達がその閉塞を計った旅順港の港口が望見された。小学校4年生の時に習った「広瀬中佐」の唱歌は3番まで全部思い出したが,大連で歌うような気持ちはおきない。戦後この軍神話が虚構と知った時のことを思い出した。

 

 旅順港は中国海軍の軍港で立ち入り禁止区域。「東支那海に日本の軍艦を並べて,支那を威嚇せよ」などと喚く賭知事を,次期首相と待望する衆愚も危険の限り。遥かに軍艦のマストを望見するのみであったが,中国海軍の原子力潜水艦も幾隻も潜んでいるであろう。

 昭和16年にできた最後の旧制高校旅順高校、あるいはその面影でも探りたいのが,この度の旅行の大きな目的であった。しかし故老に尋ねても分からない。立ち入り禁止区域内にあったのかもしれない。大連の紅灯の巷で、「北帰行」を歌って,わずかに旅愁を自ら慰めた。