北 大 寮 歌 祭 小 史
都ぞ弥生作歌90年記念を祝して
山元 周行
\. 平成年間・平成元年から平成13年まで
私が北大を定年退職した後の平成年間では、北大寮歌祭は次の日時に開催された。
21回 平成元年5月13日
22回 平成2年5月11日
23回 平成3年5月17日
24回 平成3年12月9日
25回 平成4年5月15日
26回 平成5年5月13日
27回 平成6年5月16日
28回 平成7年5月19日
29回 平成8年5月16日
30回 平成9年5月15日
31回 平成10年5月14日
32回 平成11年5月13日
33回 平成12年5月18日
34回 平成13年4月26日
会場は第24回のクラーク会館大講堂を除いて、いずれも生協教養食堂である。教養食堂は現在北部食堂と呼ばれる。
平成7年に教養部は廃止され、その建物には「高等教育機能開発総合センター」と言う舌を噛むような名の存在がある。これが食堂の改名の根拠である。改名されただけでなく、食堂は前より拡くなった。
定年になった者が、余りのこのこ顔を出すのもよくない。後の人もやりにくい。
私は強く自戒したはずであった。
しかし、この自制は初めだけであった。春の季節になると報せを心待ちにするようにもなった。案内を受けると、いそいそと出かける。私の過ぎし人生の半ばにも近い35年間で培われた習性のなせる業である。
開祭に先立つ乾杯の音頭をとって、老醜を曝すのも顧みない始末である。
顧問教官がこの役をやるように、私の現役時代に団員諸君が定着されたのであった。現顧問教官農学部教授吉原照彦氏は、自らは退き、この光栄ある役を私に慫慂し、登壇を強く促して下さる。氏の御好意と御寛容に感謝する。また、分別に苛まれながらも犯す非礼を深くお詫びする。
昨日4月18日付けの北海道新聞朝刊第1面に、氏の御研究の成果が大きく報じられていた。氏の長年の苦節を厭わない姿を知っている者の一人として喜びにたえない。
また、同日の夕刊には、同じ位の大きさの紙面で、『ススキノ照らす「心の灯台」』という大きな見出しが目立った。第67代浜田康氏が心理学の研鑚を生かして、相談室を開設する記事であった。氏の過ぎしヒュウマンな人生を知る私にとって、これまた大きな喜びである。
奇しくも、両氏は共に鹿児島から笈を負うて北大に学ばれたのである。
新しい寮歌を加えた多少の変化はあるが、歌われる寮歌は第20回までのプログラムに共通している寮歌が主となっている。
T部、U部の構成で進行するのも、第20回北大寮歌祭を踏襲している。
毎年必ず優に千数百名の参加があり、2千名を超えると言っても過言でない年も多い。
入学時(募集時)に志望学部・学科別(多少の例外はあるが)学生編成をするようになってからの学生気質の変化の影響も私には興味があった。参加者の減少の心配はないようである。かえって学生生活に安らぎが齎せられたかもしらない。
教師の教育努力によるのではなく、学部移行の優獲得競争の場裡にブチ込むことによって秩序を維持してきた暴力装置が外されたからである。
とりわけ著しいのは、閉祭後のストームである。旧教養部の建物の前で延々と続く。私は最後まで見届けたことはない。夜明けまで続くという。時に私もその輪に加わった。肩を組んでいた本州出身新入生が、「おれは北大に入ったのだ」と涙していたのを見たことがある。この時、北大が彼を裏切らないようにと祈った。
4月になって北大の入学式が報じられたりすると、胸が熱くなるのを抑えきれないような日が未だにある。応援団員諸君の助けも借りて、新入生諸君に寮歌の洗礼を行ってから講義を始めた思い出に、身も焦がされるからである。
花繚乱とは未だ言い難いが、白い花をつけた辛夷の木をバックにしたりして、緑の芝生がすべてステージであった。
私はこの時の学生諸君が一番好きである。彼等が北大に最も希望を持っているのが、この時であるからである。私もまた、このような可塑体に恵まれた幸を、最も感ずる時である。
寮歌が歌われた後にはそれぞれの寮歌の作られた時代の北大の歴史や先人について語る。最後には、ストームの訓育もする。ストームの歌は決してザレ歌ではない。他の旧制高校の連中も、このように知、情、意を簡潔に格調高く詠んだ自校独自のストームの歌などの持ち合わせはなかった。「エルムの樹影で真理を解く」“知”と「牧草片敷き詩集読む」“情”を抱懐し、最後は学府の基を残したクラークの遺訓を偲ぶのである。
しかしながら、学科目別から講座別さらに大学院担当ともなって、予算も肩書きも三段跳びした教養教師(学科目別教官)の風俗現象はどう変わったであろうか。
大学院大学を標榜すれば、学部教育とりわけ前半期教育(所謂教養教育。全学教育とも美化されている。)への教師のモチベーションは、原理的には見出し難い。
応援団OBの諸氏が主となって、先日札幌と東京で私の喜寿を祝う会を催してくれた。この御好意に多少とも報いることが出来ればという気持ちが、この稿の執筆を思いたたせた。攻撃的な筆致も抑えきれなかったが、北大寮歌の伝統継承における彼等の正統性を擁護し、彼等の払った努力と自己犠牲が並々ならないものであったことを説きたかったからである。
完
