北 大 寮 歌 祭 小 史
都ぞ弥生作歌90年記念を祝して
山元 周行
[.昭和60年から昭和63年まで
第17回北大寮歌祭は昭和60年5月10日午後6時半から、生協教養食堂で開催された。
酒の飲めないクラーク会館大講堂から酒が飲める会場に変更するには、馬場修三第74代応援団長を始めとして団員の寄付廻り等の苦労が増えた。
『第17回北大寮歌祭へ向けての活動は11月下旬、寮歌に関しての団会での討議から始まった。この話し合いの中で、北大の心であり、全北大生が共有できる歌としての寮歌の意義を再確認、団ではその普及に極力努めていくことを認め合った。その後プロジェクトチームを中心に寮歌祭の基本方針が検討された。
今回は例年のような各団体毎の発表の場といった域を越え、みんなが歌えるような雰囲気を作っていこうということになった。
その為にはどうするか。まず場所をクラーク会館大講堂から教養生協食堂に移し、酒を飲みながら会を進める。次に時期を5月中旬に遅らせ、新入生への寮歌指導を充実させる。そして曜日をこれまでの土曜から金曜にすることで、より一層の学生動員を図る。
以上の改善策により、参加した学生みんなが寮歌を歌える、そんな寮歌祭にしようとすることで方針が固まった。
具体的には5月10日の金曜日、五講目終了後の6時から行うこと、会の構成は各団体毎の発表の発表形式のT部と、自由に寮歌を歌うU部の二部構成で行うことが決定された。
これに基づき準備を進めていったが、幾つかの問題も生じた。まず生協食堂内に設けるステージを何で造るかということ。当初は前年の秋祭り前夜祭同様、運送業者からパレットを借りることを考えていたのだが、これが使用できないことになってしまった。
試行錯誤の末、寮と演研の舞台、更に大学近くの金物店から譲り受けたパレットを寄せ集めて作ることにした。もう一つの大きな問題は金銭のこと。生協食堂を借りるにはある程度の食べ物を注文しなければならないのだが、その資金繰りに苦労することになった。
結局、寮歌撰集に広告を載せその広告代を取ることと、寮OBの教官に御寄付を戴くことで何とか補った。
4月からは新入生への寮歌指導と同時に、寮歌祭の情宣、参加団体の募集が積極的に進められた。
そして当日。水産応援団も遠路参加してくれて、開催時間の迫る生協食堂前には早くも沢山の学生が溢れる盛況ぶりであった。山元先生の乾杯で幕を開けると酒の力も借りて会場のムードは否が応でも高まっていった。
酒を飲みながら、ということで混乱が生じるのではないかという点が最も心配されたのだが、多少のざわつきは見られたものの、会は順調に進められていった。U部に入るや前口上を志願する学生が多く現れ、場内全員が立ち上がって寮歌を歌う姿は、まずこの会の成功を物語っていたと言えよう.』 (第67代 元岡幸彦氏)
この年に蛮声に寄稿した「寮歌祭」と題した次の拙稿は、相も変わらぬ主張で結ばれている。
『北大での教師生活も、後三年有半と残り少なくなった私にとって、今年は寮歌祭に媒介された北大卒業生との邂逅に恵まれた年であった。
各地の寮歌祭に御案内を受けても、寮歌祭出席のために休講にして任地を離れたりするわけにはいかないのは勿論のことである。ところが、今年は学界出張の往路や帰路に丁度重なって、二、三の寮歌祭が開催されたのである。
7月22日の午後岡山で開かれる日本統計学会の評議員会に出席するには、前日の新潟寮歌祭に出席しても、北陸路を夜行で大阪にぬければよかった。新潟寮歌祭を主催している新潟白線会の事務局長は、昭和23年北大予科入学の高橋康昭君である。流石に旧制新潟高校出身者のテーブルが最も賑やかで、「生誕ここに」を高唱していたが、北大はこれについでいた。
今年の日本寮歌祭は、秋の日本数学会の終わった翌日の土曜に催された。学会開催地の富山を発つ日は、快晴無風の絶好の日和であったので、立山・黒部のアルペンルートを初めてぬけてみた。このルートの終点である信濃大町には、OBの太田勝一君が住んでいる。今春は、彼の結婚披露宴の御案内を頂きながらも欠席し、またこの信濃路は今後もそう訪れる機会もないとおもわれたので、彼の会社に電話をしてみたところ、早速駅にかけつけてくれた。新婚の奥さんとも一緒に、信州の蕎麦を賞味して別れた。士幌小屋の建設に熱心であった彼は、ここでも仕事の傍ら、同志とともに山小屋を建設中とのことである。
日本寮歌祭には二度出席したことがある。一度目は、その頃北大を卒業したばかりの諸君も武道館に私を迎えてくれたので、一緒に出席した。これらの諸君も私も何となく違和感を感じて、これらの諸君と一緒に途中で出てしまい、我々だけで銀座の近くの店で寮歌を歌い、銀座の路上とはいっても、歩道の上でストームをした。上野駅まで送ってくれた諸君もいたが.発車直前の夜行列車の最後尾に飛び乗って危うく間に合う始末であった。
昭和51年の開学百年記念の前夜祭に応援団が主催した寮歌祭には、日本寮歌振興会委員長であり、毎年の日本寮歌祭の最高責任者である神津康雄氏を始め、同会の幹部の方々が自費でわざわざ来札くだされて参加された。その宵は提灯行列にも参加された後深更まで我々と行を共にされた。その上、翌日は寮の中庭で寮生諸君と寮歌を高唱された。この年の日本寮歌祭には、この前夜祭出席に御礼をのべるために参上した。神津委員長は水野重雄会長に紹介下され、北大での前夜祭寮歌祭の成功を会長に披露された。
この度は3度目の出席である。私の北大予科生時代に同期であった者や、嘗て北大予科で教えたことのある諸君と会えたのは嬉しかったが、新制になってからの北大卒業生が全く見受けられなかったのは寂しかった。新制になっても旧制時代の寮歌が継承されているだけではなく、昭和59年まで毎年新たに寮歌が作られ、寮歌の伝統が根づいている全国唯一の大学が北大である。寮歌祭の壇上に掲げられている幟には「北海道帝国大学予科」と染めぬかれているが、北大卒業生の寮歌人口は、旧制よりは新制の方が遥かに多いのである。
応援団が主催した今春の第17回北大寮歌祭は教養食堂で行われた。北大寮歌祭が教養食堂で行われたのは、大学紛争の頃、本田君が団長であった年についで二度目である。この時には学長はじめ多数の教官の浄財で購った沢山のビールを飲みながら、小池学生部長をはじめ多数の教官も参加して、学生諸君と肩を組んで寮歌を高唱した。
外見的には学生諸君と対立するように見えたかもしれないが、紛争時代の方がかえって教官は学生諸君との絆を追求したようである。今年や最近の北大寮歌祭には、私以外の教官は殆ど見られない。紛争以後の諸々の経緯は、学生諸君とのこのような交歓を絶望させるような空気を教官の中に醸しだしたのかもしれない。
しかし、学生諸君の手により、明治40年から昭和59年までの自校の寮歌を歌う北大寮歌祭こそ真実の寮歌祭であり、この美しい北大の伝統の継承こそ、北大の学生生活にとって特徴的であると思う。』
第18回北大寮歌祭は昭和61年4月25日(金)午後6時半から、生協教養食堂で開催された。
4月7日市民会館大ステージで開催された生協前夜祭での寮歌指導9日の寮歌祭説明会から始まって、S棟前、HR寮歌指導は寮歌祭まで続けられた。これらが効を奏してか、参加クラスは昨年の倍の16クラス(それも多数のクラスを断っての数)。参加者は千数百人、混雑時は二千人を超えた大盛況。昨年から始めた酒を飲みながらの寮歌祭への転換が定着しそうである。
この寮歌祭を司った服部保秀第75代応援団長は卒業後間もなく亡くなられた。
6月の学祭の最後を飾って、「学祭フィナーレ“都ぞ弥生”一万人大合唱」の案が団員から出された。
『6月8日の当日は、教養部の玄関前を中心に、E棟の建物に屋上から、10m四方の幕五枚に都ぞ弥生の歌詞を一番から五番まで書いたものを垂らし、団員にはハンドマイクを持たせ、人員整理を行い、かたや玄関のひさしに登った団員は、前口上をし、太鼓をたたくという感じであった。開始時刻になる頃には、続々と教養部前に集まりだし、教養部E棟から体育館の前あたりまで、学生でうまるほどであった。教養祭実行委員長挨拶に続いて、力強い前口上の後、都ぞ弥生の大合唱。学祭の最後を飾る、最も素晴らしい行事であったと確信する。参加人員は、公式発表七千人。
この行事をおこなうために、四月からの継続した寮歌指導や情宣があったことは言うまでもない。学祭の最後を飾る
“都ぞ弥生”一万人大合唱、これからも毎年行ってゆき、後々は、学祭の実行委員会のみでもできる様もってゆきたいものである。』 (第77代 鈴木一信氏)
第19回北大寮歌祭は昭和62年5月1日(金)午後6時半から、生協教養食堂で開催された。
馬橋宏和第76代応援団長は「北海道には自然が未だ残っている。原始林の辛夷然り、水芭蕉然り。その自然を歌っている寮歌に接して自然を楽しむように。」と挨拶。
『連日、全団員手分けしての寮歌指導。そして本番当日、教養食堂もパンクしてしまうかと思われる程の大盛況。応援吹奏団や水産学部応援団の方々にも協力していただいて、祭は大成功。そして夜のストームは、止まる所を知らず延々と・・・・。
来年度からは、教養食堂の許容量を考慮して、新たな対策が必要である。うれしい悲鳴!?』 (団誌蛮声記事)
昨年から始まった「“都ぞ弥生”一万人大合唱」はこの年も6月の学祭フィナーレを飾った。教養部の建物の前面を殆ど蔽わんばかりに垂れ下げられた大きな布に、墨痕淋漓に書かれた字は、第75代団員藤田敦士君の筆によるものである。彼はこの年の2月に亡くなられた。
彼の野辺の送りでは、五百を超える学生諸君による校歌と都ぞ弥生の合唱で棺を送った。北大の学生諸君が寮歌によって顕示した深い友情が、彼の故郷四国から遠く離れた異境の地での葬送に対するせめてもの餞になったであろうか。
第20回北大寮歌祭は昭和63年5月13日(金)午後6時半から、生協教養食堂で開催された。
第77代は団長の宣寿次盛生君と鈴木一信君の2人である。しかし、寮歌指導、情宣、寮歌撰集の準備の苦労をされたのであろう。歌う曲数、参加団体数は例年通りで、会場は満員の大盛況であった。
昭和60年にこの生協教養食堂で開催するようになってからは、開祭式の後は大体2部に構成されている。20曲余の寮歌をステージ上で歌う(応援団ステージも含む)第一部を終えた後は会場の模様変えをする。会場の中央に壇を置く。
第二部では、参加者全員はこれを囲むようにして円陣を組み、終始起立して歌う。歌う曲の決定権は、真っ先に壇に駆け上がったものにある。最後の都ぞ弥生を除けば、プログラムはない。
最初に壇に駆け上がった者は、「瓔珞みがく」。次は「花繚乱の」。これが終わるや否や、私は壇に突進した。壇の上で私が歌う「天地の奥に」に会場の大勢の諸君が唱和してくれた。
昭和44年春、旧恵迪寮食堂の壇の上に酩酊して駈け上がって、所望もされないのに寮歌を歌いまくった。私はこの時は寮歌に飢えていた。これが契機となって応援団の顧問教官となったことは前述した。私にとっては、北大で現役として最後に参加する北大寮歌祭である。この感傷が、年甲斐もない衝動に私を駆った。
次に上がった壇上の寮生が、「うす紅の」を選んだのも嬉しかった。この作曲をしたのは第71代応援団の高田和重君である。彼は「都ぞ弥生作歌70年記念」を祝った北大寮歌祭の時の団長である。私の好きなこの寮歌が、私の感傷を更に増幅した。
