北 大 寮 歌 祭 小 史
都ぞ弥生作歌90年記念を祝して
山元 周行
Z.昭和58年から昭和59年まで・閉寮
昭和58年3月19日午後4時から生協教養食堂で開催された閉寮記念式典は、恵迪寮主催で応援団主催ではない。しかし、その実行委員長は青木崇第73代応援団長であり、私も準備段階からも多少相談を受けており、この行事の殆どの部分は寮歌祭といってもよい程であったので、ここで紹介する。
これは、この日の午前11時から市中のホテルで開催された当局主催の官製行事「新寮開寮記念式典」とは関係がない。「北海道大学学生寮の新設に伴う記念事業」募金とも関係なかったと思う。この記念事業で茶坊主を演じている者の姿はみえなかった。私が教授会で「恵迪寮」と言う言葉を使ったら、議事録には「札幌における男子寮」と訂正して記録するようにとの嫌みな発言で攻撃されるような時代であった。
都ぞ弥生の全員合唱で始まる。青木委員長挨拶、荻村自治会委員長の決意表明を込めた挨拶、星寮同窓会長挨拶、今村前学長の挨拶・乾杯、来賓紹介と続く。
昔の先生を学生諸君は存じていないので、私が会場を眺めながら、今村前学長、市川、明峯、小関の諸教授、学生部関係者を紹介する。昼の式典に出ていた筈の学生部委員の教授の姿は見当たらなかった。学生部にいた水野巌氏を紹介申し上げた時は、寮生諸君から万雷の拍手が起こった。お世話になった寮の従業員の皆さんに感謝状が贈呈された。
年代順に30人ずつ位に区切って登壇して歌うことにする。
昭和20年以前のグループが「春未だ浅き」を歌う前に、作曲者宍戸昌夫氏は「寮歌集の4箇所に名前が記されている男である」という挨拶があった。いつもながら大先輩のほのぼのとした人間性に接する想いである。
次の昭和24年までのグループには私が予科教師時代担任した者も多い。「時潮の波の」は彼らの愛唱歌である。
この時予科で苦楽を共にした明峯先生は、この音頭をとるのを求められた。大音声を上げられたり、歌い終わるや「恵迪寮万歳」を三唱をするような高揚した先生の姿にはお目にかかったことはない。この頃、北大予科教師の会「瓔珞会」の世話人を明峯先生と私がしていた。この会は、平成5年2月23日明峯先生が亡くなられたので、私は解散することにした。
次の昭和28年以前のグループは「津軽の滄海」。全員での「瓔珞みがく」合唱。
昭和32年頃のグループには、前日発足した恵迪寮同窓会の役員幸健一郎氏、横山清氏等がいる。この同窓会も、出版物や寮グッズの売れ行きも思わしくなく、経済的には苦しいようである。
今年の1月26日、恵迪寮歌歌会始めの会に招待された節に、恵迪寮同窓会代表幹事を引き受けた横山氏は「ネバーギブアップですよ」と私に述べた。彼の音頭で「タンネの氷柱」。
昭和34年入寮の大塚氏は、挨拶で「新寮に恵迪寮の名を付けるのは反対」と切り出した。.私は訝ったが、「自治を喪失した、形のみの寮には反対だ。自治を失わないように」というのであった。
昭和47年までのグループは矢野哲憲氏の音頭で「花繚乱の」。
年代順グループ別登壇は崩れかける。「寒気身を刺す」。昭和48年から55年までのグループは「茫洋の海」、「魔神の呪」。作曲者切替辰哉氏の挨拶の後、「湖に星の散るなり」。最近の恵迪寮での寮歌人気投票で2位であったと発表される。
「春雨に濡るる」、「偉大なる北溟の自然」、「蒼空高く翔けらんと」、「ああ妖雲は」と進み、「瓔珞みがく」、「校歌」、「水産放浪歌」。
昭和57年度閉寮記念寮歌「寮友よ永久に謳歌わん」が作歌者植木貴昭君の音頭で歌われる。
最後に青木崇君の前口上で「別離の歌」。この歌こそ、この宵に最も相応しい。
「尽きぬ名残の涙する 今宵限りのこの宴かな」
この年、団誌に書いた拙稿「閉寮記念の集い」で、以上の記述が補足できようか。
『この1年は閉寮に伴う集いが、さまざまな形でもたれた。
3月19日の記念式典の宵は、全国から集まった幾世代にもまたがる卒業生が教養食堂を埋めた.七年前の開学百年記念の前夜の寮歌祭・提灯行列の宵とともに、私の教養教師生活で最も思い出に残る宵の一つとなった。このいずれもは、それらの前後に学外のホテルで行われた官製行事とは極めて対照的で、しかも北大でなければもちえないものである。また、いずれもが教養部の至近のところで催されたにもかかわらず、教養部の殆どの教官は関心を示さないどころか、当局側は寧ろ黙殺しているといってもよいであろう。しかし、当日御出席下された大先輩(注1)の東京エルム新聞(昭和58年4月10日号)所載の玉稿を御披露したい。
「午後4時からは恵迪寮主催の閉寮記念式典が教養生協食堂で開催された。寮生・先輩五百人が堂に満ちて熱気に包まれた。寮歌高唱、来賓挨拶と進むうちに、先輩、後輩の区別もなくただ恵迪寮につらなる親愛の情に杯を挙げ肩を組み場内は感激の坩堝と化した。
やがて恵迪寮南の積雪の中に赤々と災があがり、(注2)火をめぐっての大ファイヤ-―ストームが敢行された。
私事ながら、筆者は独り恵迪寮に赴き、中寮一,二階、北寮と「別離の歌」を歌いながら歩いてきた。四十五年前の三月末、寮を去る前日、寮生の多くが帰省してひっそりとした寮内をくまなく「別離の歌」を歌って歩いたことを思い出し、涙が頬を伝うのを止めることができなかった。」
この催しには、団員諸君と私の微力も投入されているので、手前味噌となるのを避けて、他の筆を借りたのである。
予科で教えた嘗ての予科生諸君と肩を組み合って、三十数年ぶりの喜びを味あうこともできた。翌朝、後片付けの模様が気になって恵迪寮へ向かったが、「先生!フイルムを幾巻も使いました」と、膝まで雪につかりながら、恵迪寮に惜別のシャッターをきっている新制初期の頃の恵迪寮OBの姿もあった。頂いた名刺は、皆立派な肩書きで、本州からわざわざこられたのであった。
この後の教養部教官会議で、教養在籍の学生が、3月20日、付近の家の窓ガラスを割ったので、厳重説諭処分にするという議題があった。可也の酒を飲んで酩酊した揚句のこととの説明に会議は哄笑の渦につつまれた。会議室を出てから、これは3月19日の宵の続きではなかったかと気ずき、あの夜の歴史的な雰囲気と学生諸君のやるせない心情について、単なる酔っ払い事件としてしか理解していなかった会議の構成員の注意を向け得なかった迂闊さを恥じた。窓を割られた連れ込み風の宿の親仁は、学生を警察に告訴するといったそうである。
昨年の11月の桑園寮閉寮記念パーティーの夜、北18条界隈でストームを組んでいたら百万円の示談金をださないと警察に告訴するといって、執拗な脅迫を住民から受けたとのことである。付近の住民どころか、寮歌がうるさいといって、寮生が寮生を告訴するぞといっている話もあるそうであるから、全く恐れ入る。学生諸君の無軌道を全面的に肯定するわけではないが、大学紛争時代に比べれば随分おとなしくなったことに、あまりつけこむのはよくなかろう。
物を言わぬのが得策であるとする翼賛型の秩序主義や、現実肯定の御用学者の便乗主義の危険がないわけではないからである。 (昭和58年11月5日記)』(応援団誌 蛮声)
注1:宍戸昌夫氏 注2:寮生が鉄道の枕木を日高から運んできた。
序でに述べる。昭和58年4月27日朝早くから恵迪寮は抜き打ち的に壊された。ひらの我々教師は知る由もなく、工事の際には普通公示される掲示なども一切なかった。こんな次第だから、出勤して現場に行ってみた時には、パワーシャベルで粗方壊されていた。普通はお役所仕事とも言われて、こんなに迅速ではない。異常とも思われる短時日で終わった工事の後では、普通取り残されかねない束石や木屑の類も見られず、舐めるが如くであった。死体の殺し方の徹底さによって、下手人の死者への憎悪の度合いが占われるという。北大予科桜星会の財産であった支笏寮が壊された直後に、その場に立って、似た想いをしたのを思い出した。
工事をしていたオジサンに頼んで、恵迪寮の柱、窓枠の類を家に運んだ。骨揚げをやったような気持ちである。序でに運んだ木製の小さな腰掛には、「札幌農学校」の焼印がある。柱の太さは驚く程で、未だに頑丈に私の押し入れの邪魔物である。伊藤組が丹精こめて造ったという旧寮に対して、当時流布された老朽化宣伝は疑わしい。
第15回北大寮歌祭は、昭和58年4月23日(土)午後1時から、北大クラーク会館大講堂で開催された.
常見雅彦第72代応援団長の下で、概ね例年通りの寮歌が歌われた。
新寮歌である昭和47年度寮歌「東雲はるか」が、作歌者青木崇君の挨拶の後に歌われた。
閉祭後、中央ローンでレセプションを行った。団員が商社を廻って寄贈を受けた飲み物が提供された。寮歌高唱。ローンの各所でストームの嵐。応援団もそっちのけだ。司馬氏、三村氏等のOBと飲みながら、芝生の上で私も歓談。
第16回北大寮歌祭は、昭和59年4月28日(土)午後1時から、北大クラーク会館大講堂で開催された。
青木崇第73代応援団長の下で、概ね例年通りの寮歌が歌われた。
昭和58年新寮記念寮歌「北に恵めし」が、作歌者大崎益孝君の挨拶の後に歌われた。これに先立って、「新寮歌作者に対する記念品贈呈式」の第1回目として、大崎君に熊の彫り物が星光一先生から贈られた。恵迪寮同窓会はこの行事を継続するとの話があった。
『“新入生寮歌洗脳作戦”と銘打った。今回は寮歌祭のみの成功ではなく、新入生の寮歌普及を目標とした。更に応援団ブラバン部員を募集中であることを印象づけるため、従来のステージ内容に専属ブラス隊の協力を得て、マーチを加えてみた。例年通りのクラブ参加、クラス参加、函館からは水産応援団もかけつけてくれた。総体的に成功を収めたが、@寮歌祭がそれ自体の意味よりも新歓行事の色が濃く、それからの脱却が図れない。A寮歌本来の良さが出るレセプションがやや、ある団体の芸が注目されすぎて盛り上がった内容に欠けた。が問題であった。』 (団誌:蛮声 記事)
新寮には食堂がない。網走監獄をかたどって、6棟は玄関脇のホールにすべて通ずる。集会やコンパの場でもあった食堂を奪われた寮生は、このホールに代替の場を見つける知恵を働かした。追いコン等に呼ばれて、定年になるまで新寮を私が訪れる機会も多かった。
追いコンの後に札幌駅で、札幌を去る学生諸君を寮歌で送った懐かしい思い出も多い。宍戸昌夫氏から最近教示された興味ある文章を引用しよう。
『昔、北海道札幌駅には、駅員に対して北大生に接する心得書があり、その中に、一、 時ニ寮生トトモニ駅員ヒトシク肩ヲ組合ヒ、寮歌ヲ歌ヒ、青春ニ共鳴ノ靴音ヲ鳴ラスコトヲ許スという一条があったというが、いい時代だった。』 (日本の唱歌「下」p.58−59.講談社文庫)
私が応援団顧問になりたての頃、応援団の追いコンの後は、薄野のロータリを囲むように肩を組みストームを必ず決行したものである。その時、薄野交番のオマワリサンと私は談笑した記憶がある。
札幌の街からも、北大からも、このような風情は失われつつある。
