北 大 寮 歌 祭 小 史
都ぞ弥生作歌90年記念を祝して
山元 周行
X. 昭和55年・「瓔珞みがく」作歌60年
第12回北大寮歌祭は昭和55年4月26日午後1時から、クラーク会館大講堂で開催することになった。
この年は、瓔珞みがく作歌60年の記念すべき年に当たるので、主催者の応援団は作曲者星野竒氏を御招待申し上げた。御快諾下された氏は前日の25日、空路で新千歳空港に到着された。応援団員と共に空港にお迎えする。空港では早速山下徹団長の音頭による「瓔珞みがく」の合唱で歓迎。
お体が必ずしも自由ではない高齢の氏には夫人と共に、志村哲良社長の御好意によって、富士観光開発株式会社重役が付き添って来られるとのことであった。ところが、この重役は、私が昭和23年に担任した北大予科1年3組の予科生辛氏ではないか。「やまげん」でなく「やまもと」と聞いていたので、私と知らずに来たとのことであった。30年ぶりの再会を二人は喜びあった。
理学部自治会委員長であった志村氏は、イールズ事件で退学処分を受けた。大月市長のご子息であった彼は、大月で起業し、多くの北大卒業生を世話した。後に代議士となられたが、早逝された。辛氏とはこれから3日間、激動の30年前の思い出を語り合った。
星野氏はローヤル・センチュリーホテルで旅装を解かれた。その後、この25階にある回転レストランから北大キャンパスを俯瞰しながら、私は北大の構内について説明した。
農学部長室で氏が高橋萬衛門農学部長と歓談されるのに、辛氏と共にご相伴した後、私は寮に案内した。瓔珞みがく作曲時に使用したオルガンと、60年ぶりに対面するためであった。寮の食堂の片隅にあった懐かしいオルガンで、照子夫人がにこやかに伴奏をはじめる。時ならぬ「瓔珞みがく」の合唱が寮生の中からわき上がった。星野氏と共に私はこれに和した。私は瓔珞みがくを随分歌ってきたが、こんな劇的な場面を経験した事はない。
寮の玄関前で「都ぞ弥生」の合唱。そしてストーム。
氏はこの北大訪問の前に、北大植物園瓔珞歌碑の立派な拓本を280部、私宛にご恵送下さった。寮歌祭の前に学内教官を廻ってこれを配布してあったこともあって、教官の参加も多かった。また春なので新入学生も大勢つめかけ、クラーク会館大講堂は膨れ上がった。
山下徹団長と私の挨拶の後、私は星野氏御夫妻、佐藤未亡人を舞台中央に誘導して紹介した。
『拍手の鳴り止むのを待って星野さんがあいさつの言葉を述べた。「私と違って作歌者の佐藤君は豪放な人でした。その佐藤君の詩に私が曲をつけたのですが、夜中、布団に横になりながら頭に浮かんだメロディーをもとに、次の朝、恵迪寮食堂にあったオルガンで譜面を書きました。実はそのオルガンに昨日対面しました。昔のままで、懐かしい思いがしました。
「アインス ツバィ ドライ」と山下団長が叫んで、全員による「瓔珞みがく」が歌いだされた。足腰が弱くなって手放せないはずのツエを背広の前ボタンにかけ、両足でふんばった星野さん。手首から先が効かず、両手を叩き合わせる事ができないので、リズムに合わせ一生懸命、腕をふるう。
最後の8番も終わりに近づいたとき、星野さんは「ここはもう1度繰り返すはずなのだが・・・」というような顔で応援団をちょっと振り返り、すぐ安心して向き直し声を張り上げた。「羊蹄山に雪潔し」の繰り返しは昔も今も同じだった。』 (昭和55年4月27日北海道新聞朝刊)
翌朝の道新のコラム「卓上四季」の文を紹介しよう。筆者は北大卒業生と思われる。
『すがっていたツエを手放し、背広の前ボタンにかけ、不自由な左手のこぶしをふりながら、北大寮歌の大合唱に和していた作曲者星野さんは、八十四歳の翁ではなく、今青春を歌う若者だった。
一昨日、北大クラーク会館にわいた寮歌祭には、青春の息吹と、同じ場所で多感な時を過ごした半世紀前の感傷が、甘酸っぱくひろがっていた。時代錯誤とも、鼻持ちならないエリート意識だともくされる寮歌祭だが、失われたなにかを求めるいらだたしさの合唱ともとれる。
人物論を書く時、その人間形成期を抜いて論ずることは出来ない。「若い時にあの人と会わなかったら私の人生は違っていた」とはよく聞かされるが、若い日のめぐりあわせがその人の人生を決める。その青春時代のよさは、月なみだが美しい心だろう。
未知への出合いと、自分への過剰な期待。それゆえのごうまんと傷つきやすさ。栄光と不安。そんな矛盾が共存して、出来そうなものとできないものの区別がわからず悩んでいく。一昔前の若者のパターンだった。
はなはだ非生産的でもろくはあっても、計算を知らない一本気は美しくもある。「ブランクそれ自体が青春だ」との無頼性もある。こんな“絵”がどこかかへいってしまった時、若い時の歌でせめてもの贖罪と反俗への回帰を願う。とみればOBの寮歌祭はいじらしくもある。
ともあれ、春へのうつろいに未練を残し続けた冬は、ようやく遠ざかり、“新しい青春像”がどっと街にあふれてきた。職場や学園でのこの世代を、青春と呼ばず性春ともじる時代だという。既に成春をも終えた世代として、「在る物はすべて合理的だ」という言葉で、こういった時代相に目をつぶるとしよう。
だが、青春を卒業した同窓生として、ひとことだけもったいぶってみたい。「人生を投げてしまった人間には悩みもなにもない」と。新緑のにおう五月を前に、いってしまった青春への片思いをこめたラブレターとする。』
翌27日の快晴の朝、北大植物園瓔珞碑前で、星野夫妻、佐藤未亡人を囲み20人余で「瓔珞みがく」を合唱した。私の録音テープには、これと和した小鳥の賑やかな囀りも残っている。
