北 大 寮 歌 祭 小 史

都ぞ弥生作歌90年記念を祝して

山元 周行

W.  昭和52年から昭和54年まで

 第9回北大寮歌祭は昭和52年4月23日(土)午後1時30分より、クラーク会館大講堂で開催された。

 本来ならば前年昭和51年の11月に行うはずなのだが、クラーク会館改修工事のため4月となった。季節柄新入生の参加が目立った。司会をした谷口前団長の話は、北大寮歌について新入生を啓発するものが多かった。

 第二部の恒例となった応援団行事は川瀬和博第66代応援団長の統率の下で実行された。
 太田勝一君(第68代)の檄の後、新寮歌
   憧憬の故郷  (昭和50年)
   いつの日にか (昭和51年)  
が紹介された。作歌者(昭50)佐藤守君、(昭51)小島茂君が挨拶した後に、それぞれの寮歌が歌われた。寮史編纂委、新聞会に属していた小島君の真摯な話には心が打たれた。個人的にもお世話になったので、卒業直後名古屋の近くで農業をやられていた彼を訪ねたこともあった。

 次に、北大創基百年記念東京同窓会寄贈寮歌
   小倉行雄君作歌、矢野哲憲君作曲 : 楡陵を去る日に
   宍戸昌夫君作歌、作曲        : 北を恋う
が応援団により歌われた。

 選考に関りあった私宛の両氏からの書簡には、東京在住OBの母校への熱き想いが滲んでいる。宍戸先生は御健在であるが、予科時代私の1期下であった小倉氏が他界してから10年にもなろうか。
 歌われた曲目は、上述の4曲を除いて20曲余で前回までに大体準じている。

 第10回北大寮歌祭は昭和52年11月19日(土)午後1時30分より、クラーク会館大講堂で開催された。

 恒例により、斎藤憲一第67代応援団長の音頭で校歌合唱が始まる。今回は北大吹奏楽部の伴奏があり、その荘重な調べは校歌に厳粛な権威を添えるように思われた。寮歌を歌い始める前に、吹奏楽部の諸君は「湖に星の散るなり」を演奏された。歌なしでこの曲の良さを味あうこのような機会は少ない。
 吹奏楽部の応援団からの分離独立問題は私の顧問就任以前のことであるが、顧問なりたての頃、吹奏楽部の諸君とモツラで飲んだことを思い出す。

 歌われた20曲余の中で、「大荒吼ゆる」は応援団によって初めて歌われた。この歌は昭和12年桜星会応援歌で河邨文一郎氏が作歌した。氏は詩人としても著名であるが、札幌医大整形外科学教授で、渡辺淳一氏は作家になるべく上京する前は河邨教授の下で講師であった。
 この歌の前に硬式野球部が歌った「大地はなごやかに」(大正9年)と並んで、野球応援等に使うべく「大荒吼ゆる」が発掘された。

 『11月19日、クラーク会館大講堂にて、第10回寮歌祭が催された。
この寮歌祭は、千原氏のユーモアあふれまくる司会のため、実になごやかな雰囲気で終始した。髪を切って役立たずの筆者は、舞台へ上がる事を許されず、照明係のチーフをおおせつかった。部下2人+アルファーが実によくはたらいてくれたのだが、チーフの仕事は思っていたより忙しく、肝腎の舞台の方はあまりよく覚えていない。
 寮歌祭はいつものように、クラブ単位に歌ってもらっていくものであった。その中でもヒグマ研究グループが好評を博した。歌(注:悲歌に血吐きし)はともかく、一人がヒグマの毛皮をかぶって現れ、調査の失敗を公開した時、場内はわきにわいた。
 苫小牧のOB板谷氏の口上による「藻岩の緑」が始まると、昔と現在の歌い方が違うものだから、場内の声はバラバラになったが、板谷氏の手拍子で、昔の歌い方に統一された.これなどは移り行く寮歌というものを象徴した一幕であった。
寮歌祭の終わりはやはり、ストーム。それも場内の人々もそこら中で、肩を組み、舞台に上がっていく者に至っては数知れずという、壮大なストームであった。』 (第68代岩井隆郎氏)

 第11回北大寮歌祭は昭和53年11月4日(土)午後1時から、クラーク会館大講堂で開催された。

 今村学長は学長御就任以来寮歌祭にいつも御出席下さった。この日も御挨拶を終えた後も終始会場におられて退席されず、この後プリンスホテルで催された「応援団史出版記念パーティ」にも御列席下さった。
 「北大卒業生の学長の下でこの開学百年が祝えなかったのは残念である」というような事を、開学百年記念前夜祭寮歌祭に東京から参加した北大同窓生の中で、口にする者があった。
 しかし、前夜祭寮歌祭にも始めは強い難色を示した学生部が前述のような転換をしたのも、今村学長の御好意が働いたのではないかとも推測される。この行事への参加者等も北大卒業生の教官、特に教養の教師は少なかった。こんな事はどうでもよく、またこんな事で判断しようとはしない。しかし、長年の寮問題に対しても、北大を卒業した道内出身学内教官の多くは、体制順応的体質に浸りながらも、時に強権的であったりさえした。二高出身の今村学長、堀内学長、三高出身の伴学長等は、寧ろこのようには冷淡ではなかったかもしれない。一緒に寮歌を歌った誼だけから言うのではない。

 第11回寮歌祭の写真は、北大の広報:北大時報 No.297(1978)の表紙を飾り、その裏への寄稿が私に求められた。これは空前絶後の事なので、相も変わらない拙文を紹介する。

 『第11回北大寮歌祭は、11月4日にクラーク会館で催された。
世の多くの寮歌祭は、その陶酔に身をおき得ない者にとっては、しばしば、老人の感傷、アナクロニズム、あるいは鼻もちならないエリート意識と映る場合があると聞く。実際、新制大学発足時に、純粋な継承者を失った多くの学校では、寮歌祭の担い手も、あくまでも旧制卒業生に限られているから、最も若い者ですら齢(よわい)50に近い。

 しかし、北大はそのような断絶から免れ得る殆ど唯一の大学と言ってもよい。今なお作り続けられている寮歌は、決して、ひとり恵迪寮の独占物たるにとどまらず、常に北大生の共有財産として尊重されてきた。毎年の北大寮歌祭は、現役の学生諸君の手で催され、当日歌われる30曲余の選曲範囲は、明治40年からその年の寮歌にまでおよぶ。今年は、作られたばかりの第70回記念祭歌「草は萌え出で」が披露された。

 北大創基百年を祝った折の記念寮歌祭には、「我が運命こそ」の作歌者、「瓔珞みがく」「春未だ浅き」の作曲者を含む多くの先輩が、全国から北大体育館に集まり、若い学生諸君と感動を共にされた。今年の会場には、昭和3年「郭公の声」の作歌者が見えられた。このような時には、この先輩を壇上にたてて、その回想に聞き入る礼を学生諸君は心得ている。

 終始御出席下された学長は、寮歌が北大に学ぶ者の連帯の絆であれと、熱望された。北大、とくに教養部のキャンパスに、郭公の声とともに学生諸君の寮歌が流れる風情と閑暇とが残ることは、人間が育てられるために当然許されてよい特権であろう。
寮歌に歌われた自然的風土は損なわれつつあるかもしれないが、その精神的風土は永遠に失いたくないものである。』
                                            
 『幕下から客席をのぞき込めば、いるはいるは、2階まで超満員ではないか。それを小声で知らせれば、「ホンマかい。」「アホ-ホラ吹いたらアカンデエー.」「最初は数えるほどしかおらんもんや」「おい、幕が上がるぞ.」
ギィー。ギィ−.。スルスルスル。

 かくて晩秋の風の吹き荒れる北大キャンパスの南端クラーク会館大講堂にて、11月4日(土)13時7分、第11回北大寮歌祭の幕が上がった。
 まずは校歌.「永遠の幸」.手振りは第68代団長三村良。「キャーすてき。」「三村さんこっち向いてえ。」場内より小樽軍団の黄色い声。続いて団長挨拶。昨夜より懸命に努力してきたかいがあったか。いつもの「えー」とか脈絡のない言葉はさほど気にならずに無事終わり、めでたしめでたし。顧問山元先生による挨拶、今村学長による祝辞と続いた。今村学長には、続く団史出版記念パーティの最後まで出席していただきました。

 いよいよ第一部の開催。トップを切るのは競技スキー部「タンネの氷柱」。トップで歌ったおかげでスキー部は今年のインカレで堂々の優勝(三部)を飾り、積年の課題であった二部昇格が出来たと、団内ではもっぱらの噂である。
続いて数すくない一般出演者の経済学部小林ゼミ有志である。来年こそはクラブ外の出演を多くして、真に全学的な寮歌祭に努めよう。
 応援を離れても、恵迪寮・桑園学寮で気心の知れたスケート部には、「寒気身を刺す」を歌ってもらった。アイスホッケーの応援中だけでも寒いのに、負け試合の帰途は、心の底まで寒気が身を刺すのである。そんな恨みつらみを一心に込めて選曲しました。
 本年度全日本2位のボート部には、「津軽の滄海の」を。全日本に出発の夜、当時の斎藤憲一団長が酔った勢いでボート部主将に、朝の壮行会の約束をしてしまい、結局朝の7時に酒臭い息をハアハアさせて集まるはめとなりました。
ホッケー部、体育会常任委員に続き、今年士幌に小屋をぶち建てた士幌小屋設立委員会の登場。現委員長が設立するまでの経過と今後の利用方法などを説明すれば、客席からは期せずして、その偉業を讃える万雷の拍手が湧き起った。
 続いて、昨年春あわや北大応援団を神宮球場に引っ張り出す寸前まで頑張ってくれた硬式野球部の「天地の奥に」。今年の春の商大戦でも、商大をコッパミジンに叩き潰してくれるでしょう。
 続くは、運動クラブの猛者連中のたまり場桑園学寮の「凋落正に秋深し」。とてもホモ・サピエンスとは思えぬ顔がステージに並んだ。北大のスポーツが「凋落」とならないように、下級生をしごいてほしいものである。
 第一部最後を飾るのは、北大OBによる「春雨に濡るる」。恵迪寮生にもステージに上がってもらい、昔の歌い方で歌った。このように寮歌は歌い方が変化している曲が少なくないが、応援団は現在の歌い方で、寮生、教養生に寮歌指導しています

 第二部は応援団OB会である延齢会による「魔神の呪」で幕を開けた。続いて、はるばる小樽から小樽商大応援団がかけつけて来てくれて、「若人逍遥の歌」をもったいぶって歌う。彼らも敵地札幌に乗り込んだ緊張感に足が震えており、それでも顔には闘志をみなぎらせていた。今年の対面式を楽しみにさせてくれる。
 続いて応援団の部では、まず2年目高橋浩太郎君の檄文で幕をあける。その格調の高さに場内は騒然となり、学長学生部長をうならせる程だった。彼は将来とてつもなく大きな人物になるに違いない。次に不知火拳、瓔珞みがくの演武を披露した。はるばる函館から水産学部応援団が来て、場内の水産類の諸君と共に「水産放浪歌」を歌った。
 かっての朋友ブラスバンド部が友情出演してくれる。「湖に星の散るなり」など演奏していただいた。支笏寮が昨年閉鎖され、支笏湖合宿が不可能になってしまったが、この曲を聴くたびに、支笏湖の優美な景色と、苦しくとも楽しかった合宿が思い出される。

 第三部幕あけは、恵迪寮である。昭和52年寮歌、第70回寮祭記念寮歌と現代調の新寮歌を発表する。寮歌祭が過去の寮歌を歌うだけでなく、こうして毎年作られる寮歌の発表の場にできることは、全くすばらしいことだ。すでに昭和53年寮歌も決定したが、恵迪寮での寮歌の歴史がこれからも続くことを期待したい。
 続いて、ユニフオーム姿の凛々しいアメリカンフットボール部・馬術部・準硬式野球部・少林寺拳法部が続き、格調高い詩吟部・サッカ−部の後、剣道部が突然猥歌を歌いだし、会場を爆笑の渦にした。おかげで時間が不足し、ディレクターの熊谷氏は大あわてであった。
 最後に「別離の歌」・「都ぞ弥生」を会場の全員により斉唱し、ここに第11回北大寮歌祭は盛会のうちにフィナーレを迎えた。』 (第69代高橋浩志氏)