北 大 寮 歌 祭 小 史

都ぞ弥生作歌90年記念を祝して

山元 周行

V.   昭和51年

 北大創基百周年祝賀前夜祭 第一部 百年記念寮歌祭 第二部 提灯行列

これに関する記述は団誌にない。また北大時報等の学内の官製記事にも殆ど見あたらない。百年史・部局史(予科)の末尾に僅かに2行触れられているのみである。応援団活動の経常的行事ではないが、当時の北大応援団が全力を傾倒して遂行したればこそ成功したこの歴史的大事業の模様をここに紹介する。

 この行事は当局(官)の企画から始まったのでない。最後まで大学は主催あるいは後援の立場をとらなかった。これが学内の広報によって無視された所以であろう。
  発表された北大創基百周年記念式典の実施計画では、式典は学外の北海道厚生年金会館で、教養各クラスからは3名の学生のみが式典参加を許されるとのことであった。しかし、祝賀しようとする者は誰でも自由に参加できるような祝賀の場が設けられるべきであると私は考えた。                                 
 団員諸君に「寮歌祭開催と提灯行列挙行」を提案したところ、谷口団長以下団員諸君の賛成を得た。全く予算ゼロのスタートであったが、趣意書作成等の費用負担を厭うというような気持ちは私にはなかった。刷り上った趣意書は、市中のデパートで開催されていた「北大展」の会場に置かれたり、団員諸君が帰省される際に帰省先の東京や関西で配布されたりした。この年は国立七大学定期戦の主管校が北大であったから、団員諸君に二重、三重の苦労を強いたことになる。東京方面からの参加の多くは、当局の公的な案内によるものではなく、団員諸君の趣旨説明に共鳴された人々である。

 当時大学紛争の余燼は未だ燻っておったから、学生の学内での集会には学生部は神経質であり、大きな体育館の会場使用にも危惧を示した。祝賀行事の役員でも管理職でもなかった私は、当局のこの姿勢が転換した決定的な時点やその機微については知らない。転換した時点では時日が切迫していたので、実行委員会の立ち上げを急がなければならなかった。谷口団長は既に実質的に事務局長の努力をこなしていたが、委員長就任に矢島武教授の内意を私は得た。北海道寮歌祭の常連で寮歌を愛し、我々の北大寮歌祭にも出席下されるようになった星光一教授に大会長就任の内諾を頂いた。

  「提灯を何個作ったらよいか」と問い合わせてきた。「百年祝賀で集めた寄付の使途」を求めてきたのであろうと、私は割り切ることにした。1500個と答えたと記憶している。当日は提灯の奪い合いで怒号が飛び交った程であったから、2000個あるいは2500個と答えてもよかった。度胸がなかったと悔いている。序でに「都ぞ弥生」や「瓔珞みがく」と墨書した幟も作らせた。この幟はその後の北大寮歌祭で自由に使っているから、国有財産ではないであろう。
 寮歌撰集やプログラムの類は用意できなかった。私は裏方に徹する積もりではあったが、会場で臨機応変に進行を指示しようと考えていた。
「伝統の寮歌を高唱し、同窓生と学生とが一体となって百周年を祝いましょう。市民の皆様もおいで下さい。」と書いたビラを学内外に撒いた。

 当日、昭和51年9月14日は、朝から土砂降りの雨である。しかし、会場の体育館には続々と参加者が集まり、開会の午後5時には、学生・教官・同窓生・市民によって広い体育館も満員となった。
 矢島実行委員長の挨拶が始まるやいなや、「元気がない」という大きな野次。野次の主は、東京から来られた日本寮歌振興会委員長神津康雄氏。決して元気がなかった訳ではなく、力強く「この寮歌祭は上(官)からの企画ではなく、下から盛り上がったものである。」と、我々の心情を代弁され、このような企画を可能ならしめる北大の草創期からの精神的土壌、自然的風土を高らかに説かれた。

 神津氏の来賓祝辞は「全国38校あった旧制高校中の唯一の例外が北大に見られる。北大のみが寮歌の伝統を脈々と継承している。他に見られるような戦後の断絶はない。このような北大百年の歴史はかけがえのないものであり、他校の者から見れば羨ましくさえ感ずる。」

 星大会長の式辞の名文を省略なしに紹介する。これは、星先生が墨痕鮮やかに和紙にしたためられたものである。
 『大いなる野心の訓えの下に、学府の基が建てられてより、正に一世紀、明、九月十五日の佳日を卜して、北海道大学創基百周年の記念式典が挙行されるに先だち、建学の精神を偲び、北大百年の青史を永劫に意義あらしめるべく、「北大百年祝賀前夜祭」の第一部「記念寮歌祭」の幕を、只今、切って落さんとするものである。既に、高楼に旌旗の翻るを看、将に、鐘鼓の響くを聴く、いざや、高らかに、過ぎし不滅の青春を讃えよ、須らく、浩歌長吟、?々として世の憂愁を破らん哉。
 それ、寮歌は、須らく、意気豪宕にして雄大、純潔にして崇高、且つその呂律音調、非凡にして超越的たることを要す。俗謡俚歌固より非なり、虫鳴鳥声巧妙にして、中には聞くに足るべきものなきにしもあらずといえども、元来これ異性に対する本能的淫声にして、吾人の重厚なる鼓膜には何等の反響なし。
 北大恵迪寮の寮歌こそ、いたずらに悲憤慷慨に走らず、みだりに耽美に沈潜することなく、ひたすらに雄大なる自然を友とした天下無比の一大歌曲集である。
 さて、我らが心から愛する寮歌は若き日の想出の泉である。若かりし日の大学予科あるいは旧制高校の生活は、先ず寮歌から始まった。寮生活の伝統の中で、学び、考え、そして行動する時、寮歌は常にその源泉となって我らを育み、青春の歓喜と哀愁とは寮歌となって迸しり、すべての悩みは、寮歌の高唱によって洗い清められたのである。
 その伝統的精神は、全国、二千有余に上る寮歌の中に脈々として波うって、六十年間今に至るもなお、多くの人々の胸を強く打ち続けながら永遠に歌い続けられて行くのである。
 さて、満堂の諸君、これからこの壇上において、次々と展開される我らが雄叫びこそは、女の心にしみ入る男性美の極致であって、これらの寮歌をきいて、フラフラと来ない女性は、いささか変調であると診断せざるを得ないのである。
 今や、滔々たる技術革新の波にのって、巨大なる物質文明が急速に展開され、われわれの生活環境と社会情勢とは、ますます不安定な中に急転しつつあるが、それに伴って、当然発達しなければならない筈の精神文化は、正に、退廃の一途を辿っている現状である。
 この秋にあたり、この
 「北大百年記念寮歌祭」は、北大の限りない前進を祝福すると同時に、全人類の永遠の平和と心豊かな世界を築きあげるため、我らが高き理想を掲げて六十年間歌い続けて来た八十有余の珠玉の如き北大寮歌を高歌長吟して、混迷の世に、警鐘を乱打せんとするものである。
 では 満堂の諸君、今宵この一夜を、感激をこめて高唱乱舞しようではないか。
   昭和五十一年九月十四日
    北大百年記念祝賀前夜祭
     大会会長  星  光 一 』       

 比較的新しい寮歌から始める。
 スケート部による「花繚乱の」。ボート部による「津軽の滄海の」、ボート部歌「春三月の」。
 寮生によって「茫洋の海」、「寒気身を刺す」、「北の都は」と続き、最後の「凋落正に秋深し」 では、登壇を促された作歌者諏訪正明氏(第52代応援団OB)が音頭をとった。
 ここで、「瓔珞みがく」の作曲者星野奇氏と作歌者佐藤一雄氏未亡人が紹介され、星野氏の挨拶の後、全員で「瓔珞みがく」を合唱する。

 頃合いよしと見て、神津康雄氏に敬意を表し、氏の母校山形高校寮歌「嗚呼乾坤」を歌うことにした。音頭をとることを慫慂すると、ドスの利いた声で喜んで氏は応じた。
 百年記念行事等実行委員長山畠正男教授の姿も見えたので、彼の母校四高の寮歌「北の都に」を歌うように、応援団の諸君を促した。私の愛唱歌でもあるこの歌を、団員諸君は元気よく歌ってくれた。四高はこれで終えようと思っていたところ、会場から突然「南下軍の歌」が沸き起こってきた。
 これが鎮まるのを待って、東京から来られた樋口桜五氏が紹介された。氏は都ぞ弥生の正調を伝えて、「ミスター都ぞ弥生」とも呼ばれていた。板谷実氏(昭和23年度北大予科応援団長)の音頭で、都ぞ弥生を1番のみ歌い、大先輩の審判を乞うた。氏に敬意を表して、氏が作歌した「わが運命こそ」(大正3年)もOBによって歌われた。
 後日その色紙(コピー)を入手したのであるが、氏が詠まれた「我が命われに分らず寮歌(うた)うたう」は、私の現在の心境に通ずる。

 今村学長をはじめとする二高出身者に、二高校歌「空は東北」を献げた。盟友東北大学応援団とも唱和する機会の多かった北大応援団員は、声高らかに歌い上げた。
 始めにボート部の諸君が「津軽の滄海の」を歌っている最中、ある不安が私を過ぎった。私の予科生時代はもっと速いテンポで軽快に歌っていたからである。司会者は私のこの不安・危惧を増幅させた。学生諸君の現在の歌い方と昔の歌い方との違いを指摘するコメントが、司会者には多過ぎるのである。しかし、平素訓え諭すのならいざ知らず、このような場で自分の薀蓄を披露して、会場の雰囲気の盛り上がりに水をさす必要はない。私は司会者をどうやら誤って推挙してしまったかもしれない。
 昔の歌い方と違うと言って、年寄りの先輩から非難、軽侮されたという声を若い後輩から聞く。また、この寮歌祭に東京から参加して過分な謝意を私に示された人たちにも、このような非難、軽侮を口にする者が近年見受けられる。老人の舅根性と笑ってはすまされないので、この原因について考えてきたが、背因はこの宵に案外芽生えていたのかもしれない。つまらぬ事を詳述し過ぎた所以である。このような世代間乖離とも言うべき現象の分析は後日に期したい。
 東京から来たOBが「津軽の滄海の」を再び歌うようにと、司会者は彼等の登壇を促した。このような比較試験で時間を空費するのは惜しい。しかし、音頭をとった野球部OB上原茂胤氏が極めて紳士的であったのには救われた。野球部で氏より1年先輩であった作歌者二階堂孝一氏がビルマ戦線で戦死されたのを悼む挨拶をされた。野球部員がこの寮歌を部歌にも準ずるようにして愛唱していた時代もあった。
 春を歌った寮歌「春雨に濡るる」、「春未だ浅き」と進むと、OBの登壇も多くなり、若い寮生と一緒に歌う。東京エルム会寮歌部長宍戸昌夫氏は、挨拶で「春未だ浅きを作ってドッペッタ.今は横浜市大医学部で寮歌を教えている」とHumorを飛ばされた.
 一般学生も登壇し、「タンネの氷柱」、「蒼空高く翔けらんと」、「黒潮鳴れる」、「春来にけらし」、 「天地の奥に」と祭は佳境に入る。

 日本寮歌振興会の役員市原氏(四高)、伊藤氏(学習院)等が神津氏によって紹介される。
 この年は、北大が国立七大学総合定期戦の主管校であったが、総合優勝をした。登壇して優勝楯、優勝盃を披露する各部の部員を、「桑楡哺紅に」の大合唱で讃えた。「今はこんな歌い方をするのだ」と、現役学生を軽侮するコメントとも受け取れかねない司会者のブツブツも、会場の熱気に消されたろう。
 「ロビーに樽酒がある。自由に呑むように。」と告げられる。
 「藻岩の緑」、「魔神の呪」、「生命の争闘」というような古い寮歌になると、壇上にはOBの姿が目立ってくる。
 「校歌」の音頭をとるべく谷口団長が登壇したので、彼が開祭に傾注した努力と貢献について、私は参加者に説明した。
 寮生の前口上で「別離の歌」が始まる。
 陶酔の余韻に浸る間もなく、会場の各所から「醒めよ迷いの夢醒めよ」の叫びが噴火する。燎原の火の如く燃え広がる。予定しなかった全くの自然発火であった。日共系も反日共系もない。革マルもブントもない。違ったセクトの学生も同じ輪を形成していた。寮歌はIdeologieの違いをもaufhebenするのか。
 星大会長の音頭で「都ぞ弥生」の大合唱が大きな体育館を震撼させる。


 朝からの土砂降りの雨もあがっていた。天佑に謝する想いである。
 提灯の配布に飛び回る。紅白の斑に「祝北大百年」と墨書された提灯である。提灯を奪い合っての怒号も、待ちわびた行事をむしろ喜ぶ声に聞こえた。

 北大百年前夜祭の横断幕を先頭にし、その両脇を2本の高い幟が進む。谷口団長は校歌を歌って先陣をきる。隊列は同じ寮歌を歌って気勢を上げる沢山のグループから形成された。先頭が駅前通りにさしかかると、路上にいた陽気なアメリカ人の一団が校歌と同じ曲の歌を唱和してきた。校歌の原曲は南北戦争の頃George F. Rootが作曲した「Tramp!Tramp!Tramp!」の曲で、アメリカ人にはポピュラーなものであったからである。

 今村学長を始めとして学内外の著名な人々、本州から駆けつけた同窓生、日本寮歌振興会役員等も年齢、体面を忘れて興じられていた。大通に達すると学生の踊り狂うストームの輪にOBも巻き込まれた。
 寮歌振興会役員や遠来の同窓の士が寮歌祭に参加されたのに謝意を表して、私が行きつけのバー「すざき」を買いきって、深更まで飲みかつ歌う宴をはった。

 北大から前もって公式な案内を受けていなかった人達もこの中に多かった。当局はこれらの人に翌日の厚生年金会館での記念式典への参加案内を急遽行った。しかし、神津委員長を始め殆どの人はこれを断って、翌日恵迪寮を訪問下さった。寮の中庭で、太鼓を叩きながらの寮歌祭が、前夜に続いて寮生とともに再現された。私は彼等の侠気に感謝した。勿論他校の寮歌も歌う我が寮生に彼等は感服したであろう。