北 大 寮 歌 祭 小 史
都ぞ弥生作歌90年記念を祝して
山元 周行
U. 昭和46年から昭和50年まで
第4回北大寮歌祭は昭和46年11月13日(土)午後3時より、クラーク会館大講堂で開催された。
政治的プロパガンダの喧噪の渦中で開催する状況は前回と変わらないのであるから、参加者の人数も危ぶまれた。
『当日午後1時、教養生団員を中心とする我々一団はデモンストレーションの為寮前に集結、リヤカーにくくられた太鼓の乱打に寮歌を歌い、茶チリに刷られたビラを配りながら一路クラーク会館に向かった。
午後3時、さしもの大講堂も満席、入り口付近には立ち見席まで設けられようという、我々団員も唖然とする程の大盛況の中で第四回北大寮歌祭開幕』 (第62代 安藤俊春氏)
翌朝の新聞には「アルト・ハイデルベルグ現代版」とも書かれた。しかし、新制大学発足時の廃絶、統合などにより純粋な継承者を失った他の大学とは異なり、北大における寮歌祭は、老人の懐古趣味や復古主義的情感に支えられているものではない。北大の自然的・精神的風土を不変に象徴するのであり、アナクロニズムを現出するものではない。
『開催決定まで。
経験的な知識は計画を立てる際の判断の素材となるものである。故に我々は過去開催された寮歌祭を振り返ることより出発する。
第3回寮歌祭は、寮歌を知ってもらう、それも単に詩と曲を覚えるのではなく、寮歌を歌うことによって醸し出されるある独特のムードを肌で感じることによって北大のもつ寮歌の良さを認識してもらおうとの意向であった。そしてその為のムード作りの助けにビールを使った訳である。そしてこれが一つの新しい方法としてわれわれの前に大きく現れたのである。ムード作りは成功であった。しかし資金面においていくつかの問題を残したことは事実である。
「ビールの飲める寮歌祭」といった強烈なイメージを引き継いでいくことは、応援団にとってプラスに作用するのか否か。
一体寮歌祭は何故に行うのであろうか。それは最終的に北大というものを認識させることである。まず寮歌祭によって寮歌を歌うきっかけを作るのである。そして寮歌がパイプとなって、北大生という連帯意識が生まれることを期待するのである.過去の様子からみると一応これが統一見解といえるものであろう。
寮歌は聞くもではなく歌うもである。それなら寮歌祭は聞いてもらうものでなく歌ってもらうようにする必要があろう。歌えといっても知らない者は歌えない。ではせめて雰囲気を作るのだけでもと考える限り、我々は第3回を忘れることはできない。
しかしながら、雰囲気を作るのなら、農場でジンギスカンのコンパという形式をとっても良い。ところで今は既に秋である。我々は一体何を為し得るのか。苦悩の時を過ぎ次のように結論されたことによって、第四回寮歌祭はその実体を整えていったのである。これが北大寮歌だ。寮歌にはこんなものがあるんだ。寮歌の歌われるのはコンパ時だけではないはずである。
静かな歌をも紹介していこう。聞くことによって、寮歌の心を得てもらおう。ここに聞かせる寮歌祭を意識した訳である。
開催まで。
11月13日(土)クラーク会館大講堂使用を設定。各仕事分担。今年はあとで自分で歌えるようにと寮歌撰集には曲もつけ、情宣の弱さをカバーするためにポスターをも製作。これらの製作資金と後の団誌発行資金に、プログラムへの広告代をあてようと決まったが、後に団会にて撤回。団誌代は団員より徴収となる。
寮歌撰集作成のために謄写版で刷った枚数は1万数千枚。作業室にあてられた寮の図書室は西洋紙でいっぱい。これらを1枚ずつ折って並べて製本。30ページにわたる立派な寮歌撰集が出来上がる。
寮歌祭当日。
午前中まず照明・放送器具使用の説明を聞く。舞台効果を上げようとあれこれ考えているところへ、若干綺麗になったと思われた水産生が到着。一緒に椅子を運び場内の整理を行う。車で寮及び団室から、既に製作された寮歌撰集をはじめ、プログラム、垂れ幕等の必要物が運びこまれ、準備は順調に進む。
1,2年生は宣伝効果を上げる為、教養部の建物よりクラーク会館に向かって、中央道路を寮歌を歌い、リヤカーに乗せた太鼓を乱打しながら歩いてくる。彼らも2時前に到着。ブラバンと共に若干のリハーサルを終えて開場。学長到着を待ち、3時5分開祭。
「瓔珞みがく」が歌われる中、幕が上がる。それにつれて、総勢18名の応援団員とブラバン部員の姿が、舞台にくっきりと浮かんだ。校歌「永遠の幸」の後に、柄谷団長挨拶、続いて、学長に挨拶して頂く。
ここで一応全員舞台を降りた後、藤井康身によって檄文が読み上げられる。これが終わったところで、全員で「都ぞ弥生」を歌って、寮歌祭の雰囲気を盛り上げた。ここからは例年のように、各クラブなどに1つずつ歌ってもらう。
まず野球部とサッカー部により、「津軽の滄海の」と「茫洋の海」を通じて、北海道への憧憬(あこがれ)を歌う。次に、春夏秋冬のそれぞれの情景を巧みに歌い上げた北大らしい寮歌が並ぶ。「春雨に濡るる」「郭公の声に」「タンネの氷柱」である。水泳部による「噫妖雲は」が終わったところで、顧問山元先生に講演して頂く。面白い話に、聞く方、話す方共に楽しそうであった。先生をも含めて、応援団が「春来にけらし」を歌う。その後1年目による扇子の拍手。これで応援団の時間を終え、再度寮歌に戻る。
宴(うたげ): 「春未だ浅き」。
寂寥: 「凋落正に秋深し」「いつの日か生命結ばん」。
逍遥: 「いつの日か生命結ばん」。静かな歌が続いた後、雄飛の思いを胸に、
飛翔: 「藻岩の緑」「蒼空高く翔けらんと」 が、ブラバンの演奏の下、賑やかに歌われる。
(東京エルム新聞に連載された寮歌の作詞者、作曲者の随想をもとに各寮歌の紹介が為される。)
ブラバンの演奏の後は、ガラリとムードを変える心憎いまでに侘しい歌
生命(いのち): 「彷徨える心のままに」「暁の渚離りて」 が続く。暗い場内に、静かなメロデイーが流れた。
そして、思いで深き寮生活を偲びつつ、
追憶(おもいで):「時潮の流転」「時潮の波の」といった寮歌祭の最後の部の歌が、空手部、延齢会によって歌われた。
その後は全員で「別離の歌」を歌う.照明効果は絶頂に達し、別離の情がしのびよるムードの中に、長髪、着物の藤井の姿が象徴的に浮かび上がり、出席者全員に強烈な印象を与えたことは忘れることはできない。次回の寮歌祭での再会を約して解散。
6時より、出席して頂いた各クラブの責任者及び入場整理や照明等で協力してくれた者達と共に、生協にて無事寮歌祭が終了したことを祝してビールで乾杯した。』 (第61代 土屋明氏)
北大寮歌祭開催の団活動とも関連するので、この頃第61代の団員諸君が柄谷章団長の下で達成された事業「寮歌レコード作成」の話にも触れよう。
『現在、第61代応援団の努力目標である「レコード作成」達成に団員一同奮闘している次第です。
企画にはいったのが寮歌祭が終わって間もない11月下旬、そろそろ納会の話が出る頃であった.当初予算の関係上、三代計画でドーナツ盤3部作を出版する予定だった事は団員しか知らないと思う。
それが何故LP盤に変わったかと言うと、3部作に要する費用とLPにする費用とが大体等しかったからです。しかし団会計からすればこの費用は団活動費1年分に匹敵する。もし失敗すればの危惧が団員にあったと思う。今だから言えるが、多分にバクチ的であった事は否定できない。
制作にあたり問題となったのは、@制作費調達方法A吹き込む曲名の2点であった。
団にある手持ちの金はその額の5分の1に過ぎず、残りをどうするか?売って回収する方は自然だが、それまでレコード会社は待ってくれない。となると、考えられる事は、全枚数を予約制にして予約金を取る以外に方法はない。しかし応援団のような学生団体にそれだけの信用が置かれるだろうか?考えれば難問が続く。男は一度勝負する。
次に曲目であるが、これがまた厄介であった。大体、日頃歌われている曲だけで20を超える。何を基準にして、15曲を選ぶか。幹部一同考えた末、先ず都ぞ弥生、瓔珞みがく、別離の歌、校歌、藻岩の緑、春雨に濡るる、津軽の滄海の、以上7曲は絶対的に決定される。
残る8曲を大正から1曲、戦前戦後からそれぞれ3曲か4曲の配分を決める。
大正は6年、10年の中で6年の魔神の呪に決定。
戦前は2年、3年、4年、8年、10年、14年、17年、18年、30回記念祭歌の9曲に絞り、2,3,4年から黒潮鳴れる、8,10年から噫妖雲は、春未だ浅き、14,17,18年から春来にけらしの4曲決定。
戦後は21年、22年、24年、32年、35年、38年、41年の7曲に絞り、ポピュラーの度合いから花繚乱の、茫洋の海、時潮の波のの3曲に決定。
計15曲を選曲した次第である。思うに残曲と決定曲との相違度は全くなく、時間の都合で15曲しか選べなかったのは残念である。
1月18日、電通スタジオでの録音。前日まで、寮で音合わせの練習に励んだのであるが、「応援団は合唱団にあらず」。長短、強弱、調和の中のどれ一つ誇れるものはない。あるのは日頃歌い慣れた蛮声ばかりなり。斯くして予定時間を超えること甚だしく、延々6時間に亙る吹き込み劇であった。語るに寮歌は意気で歌うものであると。
レコード制作にあたり、山元先生を始め、教官諸先生、応援団OB会、北大豫科最終期同期会桜星68期会、そして広く全国から寄せられました先輩諸兄の手紙と寄付金等々、誠に有難うございました。御礼を申し上げます。
昭和47年2月2日記』 (第61代 柄谷章氏)
レコードのジャケットに載せる文の相談を受けた私は、最後の北大予科長宇野親美先生が、昭和39年に書かれた「北大物語」の一部を御遺族の許しを得て転載し、また館脇操教授に寄稿を依頼した。館脇教授は沢山のレコードを喜んで自ら捌いてくれた。桑園のお宅にご招待を受け、ビールを飲みながらお話をお聞きする機会も何度もあったが、その後間もなく他界された。
野幌の開拓の村に一部が保存された旧寮の一室には、ボタンを押すと寮歌が流れる装置がある。これに吹き込まれる曲の相談を、寮同窓会役員から受けた。私は「北大寮歌撰集」のレコードを推挙した。このお蔭で、ここを訪れる時はいつも、込山久夫氏等の第61代、藤井康身氏等の第62代の諸氏の懐かしい声を聞くことができる。また、周りの来訪者にも吹聴したりする。
第5回北大寮歌祭は、昭和47年11月11日(土)午後3時よりクラーク会館で開催された。
『11月11日、札幌では今冬初の吹雪が街行く人々のコートの襟を立てさせていた。・・・・
正午、ますます吹雪がひどくなってゆく。立て看板の風に飛ばされる音.学生.教官の入場者数が懸念される。午後1時応援団が吹雪の中を寮歌行進して到着。・・・・午後2時各クラブが続々結集。医学部松野正彦先生、工学部安田一次先生、理学部山元先生、歯学部横田敏勝先生等々の諸先輩も姿を見せられた。一般学生も会場を埋めて開場はほぼ満席となった。吹雪の中をクラーク会館まで寮歌を聞きにきてくれたのである。
午後3時いよいよ開幕である。「瓔珞みがく」で幕が上がる。校歌を歌った後、藤井康身団長挨拶。本年度寮歌祭に対する応援団の方針が述べられる。その概略を述べる。「寮には70年を超える伝統と、それに伴い寮歌も憶え切れない程の数で作成されて歌われている。しかし今日一般学生に日常親しまれていない寮歌の中にも立派なものがあり、これを寮歌集の片隅に埋もれさせておくのは実に残念である。それで本年は、そのような寮歌を取り上げて、皆様に紹介することにする。」
藤井団長の述べた通リ、本年は日頃余り歌われていない寮歌が次々と歌われていった.「悲歌に血吐きし」(昭和30年)、「魂の故郷」(昭和12年)、「偉大なる北溟の自然」(昭和39年)等々、メロディを完全に原曲通リ歌うのも困難な寮歌であるが、じっくり聞いていると、実に良い寮歌である。・・・・「花繚乱の」、「吾憧憬し」、「暁の渚離りて」、「茫洋の海」、「桑楡哺紅に」と次々と歌われて瞬く間に時間は過ぎてゆく。
剣道部の連中は、舞台上でストームを組み剣道部小唄を歌うなど相変わらずの気違い振りを見せつけた。・・・・午後6時、外はもう暗かった.第5回北大寮歌祭も成功裡に幕を降ろすことができた。外はもう暗かった。雪はまだ降り続いていたが、熱くなった体に気持ちよい感触を与えてくれた。・・・・」 (62代団誌記事)
注:松野先生は北大予科時代の応援団長でもあられた。応援団コンパにも御出席下されたが、御定年前に癌で御早逝された。安田先生は、北大予科の歴史で最も立派な先生の一人として敬愛された鈴木限三先生(限三さん)の甥で、「白亜校舎の新しき頃」(鈴木限三遺稿集)も編まれた。北海道寮歌祭(札幌グランドホテルで開催)では、北大関係のお世話をご夫婦でなされた。北大を御定年になり離札された後も、札幌での寮歌祭を懐かしむ御丁重な賀状の数々を頂いた。
北海道寮歌祭での北大関係世話人は農、医、工、理の順に回り持ちであるから、「工」の次に「理」の私がやるようにと、安田先生から要請された。しかし、予科教師時代私がクラス担任であった理学部所属の某教養教師を世話人に推挙した。受け付けで金の勘定をするようなことを私は嫌ったからであったが、私のこの判断が禍根を残すことになった。都ぞ弥生も満足に歌えるかも覚束ない彼は、自分と同じ学内右翼に参加案内を偏向させるなどしたりして、また持ち回りをも無視した。
彼から北海道寮歌祭の北大関係のヘゲモニーを後に奪った某開業医は、60歳を過ぎて寮歌狂いに豹変し、中学同期の私から剽窃した寮歌に関する俄仕立ての知識情報を基に、北大寮歌の勧進元であるような面をして各地の寮歌祭を旅烏のように歩いたりしている。しかし、我々の北大寮歌祭には1度も出席した事はない。
数年前から「北大豫科寮歌祭」を僭称して30人程を集め、彼のこの私的寮歌祭席上で「新制卒業生は北大寮歌を継承していない」と嘯いたりしている。
東京エルム会の方から、「本年に、彼のみが都ぞ弥生作歌90年記念、を札幌の寮歌の集いで祝う。」という手紙を私は最近頂いた。
北大での事実認識に疎い東京の人達が、彼の自己宣伝に無批判であるのを咎めるような非礼は犯したくない。また、老人になって疼き始めた彼の道楽にケチをつけたり、北大の誇るべき精神的遺産の跡目相続争いに加わっているとも疑われるのは本意ではない。
しかし「新制卒業生排除」に共鳴しながらも北大寮歌の伝統継承の正統性を標榜するなどということは、自己矛盾も甚だしい。
しかし、嘗ての日本寮歌祭に集ってきた老人達の間に最近顕著になりつつある復古的兆候、旧制高校賛美を口にしながらも旧制高校時代に培われるべきであった筈の批判的精神の喪失、戦前ナショナリズムへの回帰が危惧されかねない精神的・政治的偏向等々に比べれば、上掲の札幌での状況は指摘するにも値しない。
触媒研の東克彦先生も北大寮歌祭に御夫婦で参加下さった。藤野の御自宅にはジンギスカン鍋を囲んで寮歌を高唱するのに格好の部屋を設けられてあり、私も学生諸君とお邪魔したことがある。
北大を目指してきた愛すべき学生諸君と教師との精神的交流を媒介することが、北大では依然として寮歌の第一義的な役割であるべきである。戦前の日本の破滅、戦後の現況に於ける破綻に対して、各地の寮歌祭で旧制高校卒業生からの反省の声を聞くことは少ない。もっとも、彼等の独善的な青春謳歌や硬直した戦後教育批判というような風俗現象の未来は限られている。
第六回北大寮歌祭は昭和48年11月9日(金)午後5時より、クラーク会館大講堂で開催された。
『「歌う寮歌祭」か「聞く寮歌祭」か。今年も企画に当たって、このような問題になやまされる。交響楽団の演奏する古典音楽を聞くような顔をして、静かに寮歌を聞くのも、それなりの趣があろう。しかし、酒に酔い、高吟する寮歌の心は、捨て難いものであり、それは、歌う者のみが知るところである。
それで、酒を飲みながら歌う寮歌祭というものを、かんがえていたのであるが、「コンパと同じではないか」「参加者が仲間うちだけになってしまうのでないか」というような声もあり、考え直すことになる。
寮歌祭という名を借りて、応援団のコンパをやっていたのでは、話にならない。「北大寮歌祭」という名称であるからには、広く参加を呼びかけなければならない。コンパは何時でもできるし、雰囲気を盛り上げるのは、酒に頼らず、内容で勝負ということになる。
当日。
校歌で幕を開ける。
流石と思わせる演研の照明効果で満たされた舞台で、「春未だ浅き」、「魔神の呪」、「津軽の滄海の」、はるばる函館より来てくれた水産学部の友の「水産放浪歌」、そして「桑楡哺紅に」。情けないことに、滅多にうたうことはないが、これは桜星会優勝歌である。
昔の予科生の帽子を被って来て下さった星光一先生の瞼に浮かんだものは何であったか。
応援団演武で後半が始まる。1,2年目団員による立派な「空手の拍手」「風流舞」。滅多に見せない学生服での演武「北海囃」。そして、9月下旬から10月にかけての、支笏湖合宿で発明された「瓔珞みがく」の振り付け。これは、初公開であったが、中々好評であった。
「春雨濡るる」、「タンネの氷柱」、毎年気違い振りを発揮する剣道部の「蒼空高くかけらむと」等々。・・・・「春来にけらし」の時は、客席より続々と参加者が舞台へ上がり、山元先生と共に、声を張り上げ、場内は完全に寮歌に酔っていた。
最後の「都ぞ弥生」は、場外へも響き、また、各々歌う人の心にも響き渡った.第6回寮歌祭も成功裡に幕を降ろす事が出来た。興奮で渇いた咽喉に麦酒がうまい。』 (第63代 松村修一氏)
第七回北大寮歌祭は昭和49年11月2日(土)にクラーク会館大講堂で開催された。
「都ぞ弥生」と並んで三大寮歌と呼ばれる「嗚呼玉杯に」(一高寮歌)、「紅萌ゆる」(三高寮歌)がプログラムの中に掲載され、応援団によって歌われたことが特筆されよう。北大では、寮生や団員によって他の旧制高校寮歌も好んで歌う風潮は衰えてなかったのである。
寮歌祭終了後の打ち上げコンパでは、「嗚呼玉杯に」、「紅萌ゆる」以外に「伊吹おろし」、「春寂寥」、「南下軍」「頌春の歌」、「武夫原頭に」、「浪速の友に」等が歌われた。
『校歌。第64代梶井浩団長挨拶。顧問挨拶。瓔珞みがく。
第一部 春雨に濡るる。噫妖雲は。蒼空たかく。春来にけらし。蒼空高く翔けらんと。藻岩の緑。花繚乱の。黒潮鳴れる。湖に星の散るなり
第二部 吹奏楽部演奏。大地はなごやかに。応援団演武。嗚呼玉杯に。紅萌ゆる。水産放浪歌。若人逍遥の歌(小樽商大応援団)。冬の大地に(昭和48年)。
第三部 一帯ゆるき.桑楡哺紅に。春未だ浅き。生命の争闘。タンネの氷柱。時潮の流転。津軽の滄海の。都ぞ弥生』 (寮歌祭プログラム)
第八回北大寮歌祭は昭和50年11月1日(土)午後1時半よりクラーク会館大講堂で開催された。
『第8回北大寮歌祭の全貌を1年目の一人として記してゆきたい。
応援団ときっても切れない寮祭が10月18日から28日までであったために、寮の団員は2倍の忙しさに追われた。それでも出来得る限りの両立を目指して学内を駆け回った。
まず選曲の段階では各自の好みを主張しあって譲り合うことを知らなかったが、今回は時代順に配し各時代の代表的な歌を歌う事になり、論議の末27曲が決定された。次の段階は各クラブへの寮歌指導である。毎日のように武道館、体育館へと足を運ばせた。土砂降りの日にトレセンまで雨を恨みながら行ったこともあった。このような周到な準備をもって寮歌指導する事が寮歌祭成功への大きなステップであり、ここにすでに第8回寮歌祭に向けての舵は取られたのである。時は瞬く間に過ぎた。
当日は快晴に恵まれ会場前には入り口付近は長蛇の列が出来、我々としても情宣のかいありと涙したものである。開場するや座席は瞬く間に埋まり、熱気と興奮が幕を隔てて整列した我々にも伝わりこれから始まる寮歌祭に光明の兆しが見えたのを感じた。いよいよ校歌とともに幕があき谷口哲也団長挨拶の後、明治40年度寮歌「一帯ゆるき」から時代順に各クラブ員によって歌われていった。
その間、水野先生が足で廻って集められ、作者によって歌われた「瓔珞みがく」等の貴重なテープを聞かせて下さり、作歌当時と現在の歌い方の違いなどを話されたりした。また関西や東京の遠方より来られたOBの方々が蛮声を張り上げられたりして、場内はますます熱気を帯びてきたのである。函館からは水産生が駆けつけて来てくれ、久し振りに聞く先輩達ののどに聞き惚れたものである。
第一部が終わり休憩の後、中井氏により檄文が読み上げられ、場内どよめきがおさまらないうちに、2年目最後の総踊りによる「風流舞」が華麗に美しく舞われ、会場はうっとりと雰囲気に酔いしれているようであった。日頃付き合いの深い小樽商大応援団も来てくれ、「進軍歌」と「若人逍遥の歌」を歌ってくれた。
ひき続き第二部が始まり比較的新しい寮歌が歌われていった.昭和49年度の「北の都は」の後、最後の締めくくりとして「都ぞ弥生」を肩を組みつつ歌い始めるや、場内でもあちこちで肩を組む集団が出来、場内一体となった大合唱はひびきわたった。ストームの声があがった。全北大人が一体となって大声を張り上げ、「札幌農学校は蝦夷が島・・・」とクラーク会館を揺るがす最後を締めくくる大・大・大ストーム。乱舞、騒然、狂喜。気が付いた時、祭りは終わっていた。このようにして第8回寮歌祭は幕が降ろされたのである。
いろいろ不手際もあったけれども、一応成功したのではないかと思う。特に来年の開学百年をひかえての今年の成功は大きな収穫であり、歴史を貫き生きる寮歌の息吹を改めて考えさせられた。歌い方にも速さ、メロディーの違いなど多々の問題はあるけれども、詩が同じでものである以上、ある程度のメロディーの違いを超えて、心は通じあえるものと思う。
寮歌祭に来てくれた人々はこれから一つでも多く寮歌を覚えて、キャンパスやコンパ等で歌ってくれたらいいと思う。それから気になることは、クラブ員が寮歌を知らないことである。先輩・後輩の縦のつながりをもつ各クラブがもっと寮歌を知ってほしい。
現在、応援団が寮歌を牛耳っているような風潮があり、一般学生も自分と無関係なものとして寮歌を見ているかもしれない。しかし、それは大きな誤りであり北大人すべてが寮歌を共有し、愛してゆくのが本来の姿なのである。入学草々、北大寮歌に接した時、新世界が開け自分に一つのジャンルが増えた事に喜びを覚えたものである。春・夏・秋・冬を巧みに歌い、北海道を愛する心のしみとおった寮歌と共にこれからも北大生活を送ってゆきたい。』 (第67代 山内茂氏)
年代順に歌われている第8回のプログラムを掲げておく。
『一帯ゆるき(明治40年)藻岩の緑(明治44年)穹蒼高く(大正5年南寮)荒潮繞る(大正5年北寮)魔神の呪(大正6年)春雨に濡るる(大正12年)蒼空高く翔けらんと(昭和2年)郭公の声に(昭和3年)黒潮鳴れる(昭和4年)水産放浪歌。以上第一部
檄。風流舞。瓔珞みがく。北の都は(昭和49年)歌唱指導。若人逍遥の歌(小樽商大応援団).以上応援団演武
タンネの氷柱(昭和8年)噫妖雲は(昭和10年)魂の故郷(昭和12年)津軽の滄海の(昭和13年)湖に星の散るなり(昭和16年)春来にけらし(昭和17年)時潮の波の(昭和21年)暁の渚離りて(昭和22年)彷徨える心のままに(昭和24年)手をとりて美しき国を(昭和28年)花繚乱の(昭和32年)偉大なる北溟の自然(昭和39年)以上第二部
都ぞ弥生(明治45年)』
