北 大 寮 歌 祭 小 史

都ぞ弥生作歌90年記念を祝して

山元 周行

T.昭和42年から昭和45年まで

 第1回北大寮歌祭は、昭和42年11月20日午後6時より、北大クラーク会館で、第57代北大応援団の主催によって挙行された。

 第57代団長千川浩治氏の書簡を引用する。

 『第55代、第56代北大応援団の代に「寮歌祭開催」が、活動資金の寄付募集の趣旨の中に加えられた。御寄付を頂戴した際のこのいわば公約を果たすべく、北大寮歌祭開催の準備を開始した。
 寮歌は恵迪寮生や応援団だけのものではなく、北大生一同のものであり、皆で共有したい、させたい。この想いが応援団員の目的意識を強く支配した。
どれだけの方々が参集するかの予想も立たない。集まって頂いた方々に、都ぞ弥生の拓本を記念に、せめてさしあげよう。その作成資金を得るため、肉体労働のアルバイトをした末に、200部程用意した。200人も集まれば、御の字だと思っていたのであった。
 昭和42年11月20日の朝は既に雪景色。そのなかで団員は参加呼びかけをした。
 上述の予想に反して、クラーク会館は満員となり、溢れ出す盛況。拓本もあっという間になくなり、入手されなかった方々にはすまない気持ちであった。
 堀内寿郎学長も参加して頂き、「学内での観光ガイド嬢のアナウンスは聞きずらいが、寮歌は一向にそういう風には聞こえない。」(第57代大塚心也氏談)という内容を含んだ祝辞を頂いた。』

   注:北大クラーク会館の椅子席の数は、当時は600席。現在は520席。

 北大体育会新聞第4号(昭和42年12月15日発刊)は次のように伝えている。

 『応援団主催の第1回北大寮歌祭が、さる11月20日、夜6時より、クラーク会館にて開かれた。古い歴史と伝統を持つ寮歌が、最近、学内で歌われなくなったことに対して、広く寮歌を存続させることと併せて、学生相互、また、先輩との接触の機会を成すために、第57代応援団が中心となって行ったものである。
 定刻には会場は満員となり、団長ならびに堀内学長の挨拶、卒業生代表の祝辞の後、長髪の団長が羽織り袴、高下駄に杖を持ち、胸を張って登場、勢い良く檄を読み上げ、喚声と拍手を浴びて退場。再び幕が上がり、応援団が先頭となり、明治40年度の「一帯ゆるき」から、いよいよ寮歌がはじまり、途中からは、先輩、在校生なども壇上に上がり、団員と共に、そして、場内一体となり、ついに大合唱となった。休憩の後、プラスバンド部の演奏、リーダーの空手(注:拍手の型である)披露、そして、小樽商大応援団の友情出演などもあり、昭和41年度「いつの日か生命結ばん」まで12曲を歌った。
 新聞社の方が、写真を撮るなど、場内は誰しも興奮しており、最後に、学長を壇上へ迎え、全員で「別離の歌」、「都ぞ弥生」を歌って幕となり、寮歌祭も大成功のうちに終わった。その後、先輩を交えて親睦コンパがあり、9時まで盛大に行われた。』

   注:恵迪寮生、各部、各級等が登壇して1曲ずつリードするのを中心とするその後の形式と異なり、第1回北大寮歌祭では応援団がでずっぱりでリードする形式が中心であった。

 私は北大在任中、北大寮歌祭は第1回だけは出席していない。従って上述のように、第1回北大寮歌祭の模様の記述は、千川氏書簡、新聞記事の引用に依った。

 第2回は中止された。

 私が北大応援団顧問教官であったのは、昭和44年3月から、北大を定年退官した平成元年3月までの間である。この間に開催された第3回以降の北大寮歌祭には、私はすべて出席しているので、以下の記述は主として私の筆によることにする。北大応援団誌「蛮声」、北大寮歌祭プログラム、北大寮歌撰集、録音テープ等で、私の記憶を補強して、なるべく客観的な記述を期したい。とはいっても、北大寮歌祭を通じての団員や学生諸君との交流は、北大での教師生活で懐いた極めて主観的な私の信条(心情?)と切り離しては回想されない。

 また、団員OBの団誌「蛮声」への寄稿を引用するのをお許し願いたい。『』(団員OB名)とあるのは、この引用がなされた部分である。

 私の応援団顧問就任が要請された契機は、昭和44年3月の恵迪寮追いコン出席である。御来賓の堀内学長が挨拶を済ませ間もなく退席された後は、出席していた教官は鈴木朝英学生部長と私だけであった。私に出席を慫慂しておきながら欠席した学生部委員を含めて、学生部委員は1名も出席していなかった。寮歌を存分に歌えることが許されたこの宵は、私は寮歌に陶酔した。私の北大予科生時代に覚えた沢山の寮歌の中の2,3は応援団員の誰も知らず、この事は妙に感心された。フランス語の歌を鈴木学生部長が歌い始めたのに向うを張って、私はドイツ語の歌を歌う等して、2人は食堂の壇上で音痴を競い合った。
 夜中の1時を過ぎていたのに、山鼻のおでんやに2次会の場を、寮生諸君と共に求めた.今は年商2000億を超える横山清社長(恵迪寮同窓会代表幹事、北海道延齢会副会長)とも、彼が北大卒業の直後の頃は、この場末の店でよく一緒に飲んで寮歌を歌いあったものであった。

 このようなことがあった後に、須磨隆第59代応援団団長から、顧問就任を懇請された。最後の北大予科教授であった私は、北大における寮歌の伝統継承の素志を生かす機会が与えられたのに感謝して、好意あるこのお申し出に応じた。
 顧問就任の顛末を詳述し過ぎたかもしれないが、私の北大における教師生活の1つの転換点であった。

 この後間もなく4月10日に、クラス反戦連合の学生によって、北大体育館での北大入学式は粉砕された。北大における大学紛争がこれに随伴したことを思えば、寮の追いコンは紛争前夜の最後の宴であった。数次のストライキが続く。革マル派学生、社学同、C闘委等による相次ぐ教養部封鎖。集団団交、討論集会による教官追及。学生諸君から提起されたラヂカルな問題提起や自己批判要求に、専門馬鹿とも罵られて苦悩する教師の姿を眺めては、学生諸君と教師との間の絆の回復も悲観的に見えた。日共系と反日共系との対立、反日共系の学生セクトの分裂、抗争は、学生間の連帯を絶望視させた。また、ノンセクトの学生の間には疎外感も漲った。昭和45年の新年初頭機動隊により長期封鎖が解除された後は、どの学生セクトも、その集会で200名以上の動員は出来なかった。このように、第3回北大寮歌祭の準備を始めた際の学内状況は、開催の成否そのものが疑問視されかねない困難なものであった。

 このような時にこそ、北大の学生は同じ豊かな揺籃に抱かれているという共通の基盤の上に結ばれるべきでないか。寮歌は北大に学んだ者のこの連帯の絆たりえないか。このような団員の想いが不安と交錯した。
 団員の発意により、学内の教授、助教授を廻ってご寄付をお願いし、ビールと茶菓を用意することになった。浄財を賜った教官の数は200名余、また寮歌祭に参加した教官の数は30名余。何れも空前絶後の数字である。
大学紛争が沈静化し、学生運動も文部行政、学内行政にさして脅威ともならず、寮批判が学内世論の大勢となってからは、教師は寮問題にも冷淡となり、学内のこの北大寮歌祭にも教官は殆ど出席しなくなった。逆説的に聞こえるかもしれないが、学生と教師との断絶が叫ばれた大学紛争の時代の方が、教師はかえって学生との絆をより模索したといえる。

 昭和45年11月14日の日には午後2時から、教養食堂に会場設営を団員は始めた。教養校舎から大きな教壇を2つ運び出し、テーブルの上に乗せて舞台を作る。紅白の垂れ幕で周囲の壁を飾る。学生諸君、教官は続々と詰めかけ、開会の午後3時には会場狭しの状況となった。
 全員による都ぞ弥生の大合唱で開祭。私はビールの乾杯の音頭をとる栄を担った。
 本田彰第六十代団長挨拶。学長挨拶は、堀内学長に代わっての小池東一郎学生部長による挨拶。開祭の儀式は平穏裡に終了。
 学生セクトの集会は鉄パイプで防衛され、入学式、卒業式も警察権力を算定しなければその秩序が維持されない状況であったから、この平安は貴重なものというべきである。

プログラムを紹介する。

第一部 春来にけらし(剣道部)。蒼空高く翔けらんと(陸上ホッケー部)。
     噫妖雲は(沼津東高校OB)。津軽の滄海の(硬式野球部)。
     天地の奥に(2年2組)。魔神の呪(水泳部)。
第二部 檄(応援団)。拍手型(応援団)。若人逍遥の歌(小樽商大応援団)。
     タンネの氷柱(1年30組)。時潮の波の(南寮有志)。
     暁の渚離りて(バドミントン部)。柔道部部歌 東征歌(柔道部)。
     茫洋の海(柔道部)。春雨に濡るる(南寮階上有志)。
     一帯ゆるき(1年37組)。水産放浪歌(水産寮歌愛好会)
第三部 北大吹奏楽研究部演奏:士官候補生。空よ。童謡メドレー。都ぞ弥生。
     寮歌指導:昭和45年度寮歌「秋逍遥」。
     瓔珞みがく(全員)。吾れ憧れし(延齢会)。藻岩の緑(サッカー部)。
     漕艇部部歌 春三月の(漕艇部)。花繚乱の(青年寄宿舎)。
     黒潮鳴れる(B.B.A.)。湖に星の散るなり(桑園寮)。
     永遠の幸。ストーム。別離の歌。

 調子に乗って叩き過ぎて、途中で太鼓が突然破れる椿事もあった。
最後は学生、教官が肩を組み合って「別離の歌」を歌った.この劇的なフイナーレでは、我々が誇るこの詩の心を参加者全員で共感した。